探検家、霊長類学者に会いに行く

人間はなぜ冒険するのか?
角幡唯介(作家・探検家 )×山極壽一(京都大学前総長)

究極の自由は、究極の不自由

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角幡現代社会の人々の思考は急速に合理的、効率的な方向に向かっています。どこかに到達するために、何らかの成果を出すために目標を定め、それに向かって効率よく進むことばかりを追い求めている。テクノロジーがそれを後押しして、思考回路がさらにそちらに進む。そこからこぼれ落ちることが存在しないような世の中になっています。そこに僕は違和感を覚えます。

山極どんな現象も、文字や数値にして語らなければならなくなっています。デジタライズされないものは比較できないからでしょう。例えば、北極圏に何日掛けて到達したのか。そのうちどのくらいの日数が闇夜であったのかを数値化して、他の冒険家と比べてその冒険の価値を判断するといった方法が常識的な手法になってきているのではないでしょうか。
 でも、本当にそうなのか? 個人的な体験は数値では表せません。面と向かって語れば他人とある程度は共有できるかもしれませんが、完全に理解してもらうことはできません。では、個人が体験したものを共有するためにはどうしたらいいのか。私はゴリラを通じてそれを探っています。ゴリラは言葉を持っていませんが、ゴリラと私の間には何らかの共有意識がある。それがおそらく人間が言葉を発明する以前に持っていたコミュニケーションのスタイルなのだと思います。目で見つめ合うとか、身体が同調するとかいったことを使いながら、人間は信頼感や嬉しさ、楽しさ、悲しみを共有してきた。それが、現代の人間が失い始めている大事なものなのではないかと思います。

角幡現場に出て、現在進行形の出来事の中に身をおくことで身体的な関わりができる。その関わりの中で物語が生まれて固有の経験になるのに、そうした身体的な関わりが急速になくなりつつあります。今の人たちの思考がものすごく短絡的になっているのも、そこに原因があると思えてなりません。人間だって土地だって身体的に関わればもっと複雑だってことがわかるのに、テクノロジーに頼り切って自分の身体で関わる経験を欠いてしまったせいで、世の中は論理や合理性だけで単純に割り切れるわけではないという当たり前のことに想像力が働かない。ヘイトスピーチや冷笑主義が幅をきかせるのも、身体的に関わる機会が減り、人間を短絡的に捉えるようになった結果としか思えません。

山極身体が伴わずに言葉だけでやり取りをしていると、身体はバーチャルな世界を演じるだけの物体になってしまう。でも、実際に身体を突き合わせることで感じるものは、言葉だけでやり取りしているものとは違うはずです。

角幡山極さんは、「ゴリラは一人の自由さに耐えられない、究極の自由は究極の不自由だ」とお書きになっています。ゴリラのオスは一人になって自由に動いているかと思いきや、それに耐えられずにメスの誘いに応じて集団を作り出す。  僕は完全なフリーランスなので、旅をして帰ってくると、以前は狭いアパートで、一人で原稿を書いていました。ものすごく自由だけれど、孤独でした。単独行動のオスゴリラと同じで、その時にたまたま一頭のメスと出会って結婚した。人間もあまりに自由だと、その不安に耐えきれず自由から逃れたくなるのです。
 極夜行とは、全く何も見えない闇という不確定状況に突入することです。自分ですべてを判断し、すべての状況を処理して旅を続けなければならない。自分の位置がわからないから、明日どうなるかもわからない。時間軸上の未来も不確定になってきます。あまりに自由が耐え難いので、不確定状況を確定状況にしたくなってくる。少なくとも二、三日先の未来は見通せるくらいの確定状況に変えていきたくなるのです。その一連の流れが冒険の魅力なのかなという気もします。つまり、不確定状況を確定状況にした時の安堵感とか快感に、生きている手応えがあるから冒険を続けているとも言えます。
 自由であるのはつらい。全部、自分の頭で判断して行動しなければならないからです。でも、だからこそ自由には価値があるとも言える。自然の中に飛び出し、逃げ出したくなるほどのすべての責任を両肩に背負って、その自由を噛みしめる。そこに冒険の意味があります。

山極狩猟採集民と付き合っていると、彼らはすべてのことを一人で行います。けれども、あえて仲間とシェアをする。自分でもできるのに、あえて相手に任せて集団でいることを好む、それが彼らの文化です。能力的に一人で暮らせても、いろいろな人たちと役割を分担して一緒にいるようにしている。角幡さんは自分でやろうとすれば一人でなんでもできます。でも、それだけでは生きられない何かがある。それがシステムの外に出てみると身にしみてわかるのでしょう。
 冒険とは、仲間の元に戻ってきた時に意味を与えられる。システムの外から戻ってきて、未知の体験を仲間に伝えることによって新たなシェアが生まれるからです。仲間もそれを期待し、自分はその期待を背負ってまたシステムの外へ出る。冒険者とは、人間の好奇心と未来への期待を一身に引き受ける人のことを指すのかもしれませんね。

構成◉戸矢晃一

そこにある山

角幡唯介 著

選択肢、なし。ゆえに、自由。妻と娘、12頭の犬、35年の住宅ローン――かつては想像すらしなかった「関わり」のなかから生み出した、まったく新しい人生論。冒険家・角幡唯介が見つけた「自由の正体」とは。

角幡唯介(作家・探検家 )×山極壽一(京都大学前総長)
角幡唯介(かくはたゆうすけ)
1976年北海道生まれ。早稲田大学卒業後、朝日新聞社入社。同社退社後に執筆した『空白の五マイル』で開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞、梅棹忠夫山と探検文学賞を受賞。著書に『雪男は向こうからやって来た』(新田次郎文学賞)、『アグルーカの行方』(講談社ノンフィクション賞)、『極夜行』(大佛次郎賞)など。2020年10月に『そこにある山』を刊行。

山極壽一(やまぎわじゅいち)
1952年東京都生まれ。京都大学大学院理学研究科博士課程単位取得退学。理学博士。専門は人類学、霊長類学。日本モンキーセンター、京都大学霊長類研究所、京都大学大学院理学研究科等を経て、2014年より20年まで京都大学総長を務める。国立大学協会会長、日本学術会議会長など歴任。著書に『暴力はどこからきたか』『父という余分なもの』、共編著に『ゴリラは戦わない』など。
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