(『中央公論』2022年1月号より抜粋)
- ショパンコンクールと日本人
- 日本での熱狂的ブーム
5年に1度、ショパンの故郷ポーランドのワルシャワで開催される、ショパン国際ピアノコンクール。第18回は、新型コロナウイルス蔓延の影響による1年の延期ののち、2021年10月に開催された。
書類と映像による審査の結果が発表されたのは2020年3月上旬のこと。延期はそのあと決定されたので、参加者は、1年余分に準備期間を得たこととなる。それもあってレベルが非常に高く、またそれぞれが自分のショパンをつきつめたことで、個性豊かなピアニストが競演した。
優勝したのは、中国系カナダ人のブルース・リウ。そして日本からは2人が入賞。特に第2位となった反田(そりた)恭平は、1970年の内田光子以来、51年ぶりの日本人最高位タイということで、日本のメディアで大きく取り上げられた。
本稿では、そんな反田をはじめとする日本人の活躍と今回のコンクールの様子もご紹介するが、まずはショパンコンクールとはどんなものか、そして日本人にとってなぜこれほどこのコンクールが特別な位置付けにあるのかというところから、話を始めたい。
ショパンコンクールと日本人
第1回ショパン国際ピアノコンクールは、1927年1月に開催された。ワルシャワ音楽院教授だったイェジ・ジュラヴレフが、祖国の誇りであるショパンに再び光を当て、さらに第一次世界大戦で疲弊した国民を元気付けようと、コンクールの創設を提案。初回は8ヵ国から26名のピアニストが参加という小規模なものだったが、その中には、当時まだピアニストを目指していたショスタコーヴィチもいた。ただし彼はコンクール中、虫垂炎を発症していたこともあり、結果は振るわなかった。
以後コンクールは、第二次世界大戦中の中止を除き、基本的に5年に1度のペースで開催されてきた。現在も続くなかでは最も古いコンクールだ。また、マウリツィオ・ポリーニ(1960年)、マルタ・アルゲリッチ(65年)、クリスチャン・ツィメルマン(75年)、ダン・タイ・ソン(80年)、近年であればラファウ・ブレハッチ (2005年)やチョ・ソンジン(15年)など、過去の優勝者のその後の活躍からも、世界最高峰といえる。
日本人が初めてショパンコンクールに参加したのは、1937年、第3回のこと。参加者は甲斐美和と原智恵子。特に原は聴衆と批評家から高く評価されたといい、第15位という結果に人々が反発し、警察隊が出動するほどだったと当時の日本の新聞は伝えている。1955年の第5回では、田中希代子が第10位に入賞。この時の審査員にはアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリがいたが、第2位となったウラディーミル・アシュケナージが優勝すべきであることと、田中はもっと評価されるべきだということを主張し、順位の認定書へのサインを拒否したと伝えられている。戦前生まれの日本人が"本場"でこれだけの評価を集めたのは、純粋な音楽性に加えて、"極東"から来た着物姿の女性が思った以上に高いレベルにあったことへの驚きによる加点もあってのことだろう。
東京オリンピックの翌年である1965年の第7回では、中村紘子が第4位となった。当時の中村は、NHK交響楽団初の全世界ツアーにソリストの一人として抜擢されるなど、すでに天才少女として注目を集めていた。そのためこの快挙にメディアは沸き、日本でのショパンコンクールの認知度はますます高まった。そして続く1970年が、前述の内田光子が第2位に入賞した回。彼女は多くの日本人と異なり、入賞後も日本に戻らず、拠点をロンドンにおいた。その選択が大きかったか、世界トップクラスの存在と認められる、現時点では日本人唯一のピアニストといえる。
日本は高度経済成長の真っ只中、海外旅行も自由化された。さらにはヤマハやカワイがピアノ製造業と音楽教室事業で躍進し、ピアノブームが起きていた頃で、参加者、聴衆ともにこのあたりから日本人が増え始める。