国民的同調圧力としてのタックイン/アウト
最初に誰かがTシャツの裾を出したとき、もしくは入れたとき、きっとその人は他人と違うことがしたかったはずだ。「恥知らず」であることの誇り。「とっぴ」であることで高鳴る胸。周りと違う服装で出かけることは風俗=同調圧力へのアンチテーゼの表現だった――はずなのだ。
ところが、そのとっぴなスタイルが世の中に広がり一般化すると、そのとっぴさ自体が次なる同調圧力になってしまう。皮肉な運命を流行は常に背負い続ける。
「しゃれた」感覚が1年後には「やぼ」になるのが通常の流行現象だ。しかし、タックイン/アウトは他の流行とは時間感覚が違っている。風俗として定着したことにより「流行する」→「消える」→「リバイバルする」という流行サイクルの「消える」がないのだ。
一時の「しゃれた」感覚が1年また1年と続いていくということは、逆にいえば一つ前の風俗(ここではタックイン)に、本来なら2年後には消えるはずの「やぼ」の状態が何年も何年も溜め込まれていく。
つまりTシャツの裾出しが風俗として定着した裏で、タックインは知らず知らずのうちに30年分の「やぼ」を溜め込んでいたのではないだろうか。
様々な流行ファッションがあるなかで、Tシャツの裾の出し入れだけが国民的といっていいほどの同調圧力をもつのは、「やぼ」が消えずに降り積もるからだ。
若者たちにとっては、目の前の切実な流行でしかなく、彼ら彼女らは無邪気でいられるが、30年分の蓄積された「やぼ」が見える大人は戸惑うしかない。
そう。Tシャツを出したときも、しまったときも、大人だけが戸惑っている。