昭和の国民的娯楽の一つ、プロレス。平成期には団体が分裂、消滅を繰り返し、また総合格闘技のブームも相まって、一時は“風前の灯火”となった。しかし近年、経営フロント陣の創意工夫で再びプロレス熱が高まっている。長年取材をしてきた著者が、昭和の名プロデューサーにスポットをあてて、プロレスの盛衰を描く。
(『中央公論』2022年4月号より抜粋)
(『中央公論』2022年4月号より抜粋)
今年1月8日、横浜アリーナで新日本プロレスとプロレスリング・ノアが合同興行を開催し、プロレス界で久々の大ヒット興行が実現した。このコロナ禍にあって他のエンターテインメント業界と同じように観客動員に苦しむプロレス界だが、普段見られないレスラー同士の「全面対抗戦」だけあって、チケットは発売直後に売り切れ、超満員札止めとなったのだ。
この興行を企画したのは、大張高己(おおばりたかみ)社長を筆頭とする新日本プロレスのフロント陣だった。コロナ禍の興行不振を打開しようとノアを運営する「サイバーファイト」の武田有弘(なりひろ)取締役らと協議し、対抗戦が実現したのである。この企画に象徴されるように、「令和のプロレス」はフロント主導でプロデュースする形式が定着している。
しかし、「昭和のプロレス」は違った。多少なりともプロレスを見てきた読者ならばおわかりだろうが、昭和から平成の半ばまでは、「日本プロレス」の力道山や「全日本プロレス」のジャイアント馬場など、団体を立ち上げたレスラーがそのまま経営トップに就くことがほとんどだった。しかし、名選手が必ずしも名経営者にはなりえず、経営不振や団体の分裂を引き起こし、それが波瀾万丈のプロレス史を形作る。リング外で起きる事件は興行面で話題を呼びつつも、経営的には不安定の連続だった。令和の今、プロレス界は「レスラー経営」がもたらしたスキャンダルと決別し、フロント主導で経営の安定を図っている。奇しくも今年は昭和47(1972)年にアントニオ猪木が「新日本プロレス」を、馬場が「全日本プロレス」を旗揚げして50年の節目でもある。本稿では、フロント主導の現代プロレスの先駆となった2人のプロデューサーに焦点をあて、その変遷を追いたい。