福留崇広 誰が一番強いのか? 昭和のプロレスを支えた名プロデューサーたち

福留崇広

6e5021e7f5fa7f2b17c7598ad6370db290c88d1a.jpg(左)音楽業界の手法を取り入れた神新二 (右)アントニオ猪木と談話する新間寿。新間はモハメド・アリ戦など数々の伝説を作ってきた。( 撮影:山内猛)

プロレス黎明期のレスラー兼社長

 プロレスといえば、大会場のビッグマッチにテレビ中継が入った興行が想起されるだろうか。この形式は、昭和29(1954)年2月に蔵前国技館で開催された、元大相撲・関脇の力道山と、柔道日本一の木村政彦がタッグを組み、アメリカから招聘したベン&マイクのシャープ兄弟と対戦したイベントが最初と言われる。この一戦は、前年に開局したばかりのNHKと日本テレビが初めてテレビ中継し、新橋駅前の街頭テレビで約2万人が観戦したという。以来、力道山は国民的ヒーローの座へと駆け上がり、日本でのプロレス人気も定着していった。

 看板レスラーの力道山は、その前年の昭和28年に自らが社長となって興行会社「日本プロレス」を設立し、リング内外を完全に支配した。昭和38年に39歳で急逝したが、その後も団体を支配したのは元レスラーと現役選手たちだった。2代目社長に就いたのは、同じく元力士のレスラー豊登(とよのぼり)道春だったが、会社の経費を使い込んで追放される。そのほか、芳の里淳三、遠藤幸吉、吉村道明、さらにはジャイアント馬場といったレスラーが経営陣に入り、団体を動かした。

 レスラーが団体を動かす図式は、昭和42年1月に旗揚げした国際プロレスも同様で、社長は元レスラーの吉原功だった。さらに昭和47年3月にアントニオ猪木が新日本プロレスを、同年10月にジャイアント馬場が全日本プロレスを相次いで立ち上げると、2人はそれぞれ会社の社長に就任し、リング上ではエースとして文字通り体を張って、興行動員に汗を流した。

 レスラーが団体を経営し、さらにリングを支配する構図が当たり前だった昭和時代。一大転機が訪れたのは昭和49年3月、蔵前国技館で行われたアントニオ猪木とストロング小林の日本人対決だった。この試合をプロデュースしたのは、当時、新日本プロレスの営業促進部長だった新間寿(しんまひさし)である。レスラー以外が試合をプロデュースするなど、それまでのプロレス界では考えられない革命的出来事だった。

 今年3月に87歳を迎える新間は、48年前に手掛けた「猪木対小林」戦について、「何とかして馬場さんの全日本に勝ちたい。アントニオ猪木さんを男にしたい。その一心でした」と振り返る。

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