言論ではなく共感をめぐる競争へ
このアニメーションが放送されたのは、2015年のこと。つまり、まだトランプ現象もキャンセル・カルチャー(過去のSNSなどでの発言をもとに、批判が殺到することで、現在の職や地位を失ってしまう現象。19年に当時の前アメリカ大統領バラク・オバマが警鐘を鳴らした)の嵐も吹き荒れていないタイミングで描かれているのだ。
右であろうが左であろうが、ソーシャルメディア時代にピープルズ・パワーが増大し、無用な争いが巻き起こることを、この寓話は少しだけ早くから予見していた。
この寓話の後半で皮肉として描かれているのは、レビュアー=批評家たちの誰もが、自分こそがまともな意見の持ち主で、社会によい影響を与えていると信じて疑っていないというところ。実際、ネットの多くの炎上、さらに有名人らへの誹謗中傷も、集団心理が引き起こしている現象ではない。個々人にとっては、自分の正義感に基づいた素直な行動なのだ。その集合が、ネット炎上に見えているだけ、と認識している。ゆえに加害性などの自覚に結びつかず、同じことが何度も繰り返される。始末に負えない。
もう一つこの寓話から読み解くべき皮肉なポイントがある。
それは、誰もが批評家になっている時代にもかかわらず、批評家が一番嫌われてもいるという点である。この矛盾した構図こそ、最も重要な寓話的要素だ。
ソーシャルメディア上では誰もが自由に発言、評論ができる。ブログやツイッター、フェイスブックの台頭を見てきた世代は、もちろんそれをポジティブなものとして捉えた。民主的で正しいことを言い合える場所の登場を誰もが無邪気に歓迎したのだ。そして、それまで机上の空論でしかなかった「集合知」を実現するためのツールを実装できたのだとすら考えていた。
だが、その状況は想像以上に早い段階で崩れていった。民主的な発言の場のはずだったソーシャルメディアは、早々に「オルタナティブ・ファクト」を発生させる装置となり、Qアノンから都市伝説まで雑多な陰謀論の培養液となり、政治的分断を進ませ、有名人が誹謗中傷で追い込まれる状況を生み続けた。
ただ、集合知がたちまち陰謀論に転じたわけではない。おそらく集合知と陰謀論の間を埋める存在が「共感」だった。
ソーシャルメディアでは、「いいね」のボタンを通じて共感を集めることができる。共感を多く集められる者が、発言の影響力を高め、いわゆるインフルエンサーと呼ばれる存在が生まれてきた。
多くの企業が「インフルエンサー・マーケティング」として、数十万単位のフォロワー数を持っている発信者を通じて商品の宣伝などを行うようになるのは、2010年代以降。広告から口コミへ。効率的にモノを売る手法が変化したのだ。一方、彼らの目的が商品宣伝であることを隠したまま商品をすすめるステルスマーケティングが批判されることも増えている。
フォロワー数が学歴、面接、試験の点数などと同様に、就職活動における採用の判断基準にされることもある。人に共感されることの価値が相対的に上がり、それを集めるインフルエンサーは、現代の特権階級となった。
一方、ソーシャルメディアが共感を集める競争の場になると、ネット上で批評家的な態度が嫌われはじめる。共感を集めることと相反する態度が批評だったからだ。
17年の東京都議選にて、人気グループSPEEDの元メンバーで自民党参議院議員の今井絵理子が選挙戦の応援メッセージとしてつぶやいた「『批判なき選挙、批判なき政治』を目指して」というツイート(@Eriko_imai 17年6月23日、抜粋)は、まさに「批判」を含めた評論嫌いの時代を体現した内容といえる。
この今井のツイートは、政治への批判を許さないという特別な意識から生まれたわけではないのだろう。選挙戦も政治活動もネットにおける共感を軸に回すことでよくなるという宣言、提案だったように思える。
何かを叩くよりも、褒めたり応援したりする態度でいた方が物事はよくなる。共感が重視される時代の価値観がまさに表れている。
政治に無知なタレント議員として侮られることも多いのだろうが、彼女は、共感と批判の対立構図を描き、たった一つのつぶやきでそれを提示した。何が味方で何が敵かを見立てる能力が政治家としての必須の能力だとするなら、なかなか秀でたセンスといえるだろう。
ただ、こうしたスタンスは共感を過大評価しているようにも見える。インフルエンサーには、常""アンチ"と呼ばれる批判者たちがついて回る。そして、誹謗中傷にさらされ、さらには自殺につながるケースなどが社会問題になることもある。
多くの人から集めた共感は、脆いものでもある。共感が裏切られる瞬間に、その感情は反転することもあるのだ。