メディア環境の変化と批評家嫌い
「やはり人類にインターネットは早すぎた感しかない」(@tsuda 19年5月20日)とつぶやいたのは、ソーシャルメディアの可能性をいち早く論じたITジャーナリスト津田大介だった。だが、「人類」もそれなりにはネットのネガティブ面に対処している部分もあるだろう。
物心ついた頃にすでにソーシャルメディアが存在していたデジタルネイティブ世代は、ネットの負の側面を自明のものとして育たざるをえなかったはずだ。おそらくもっともシンプルな対応策である"批評家的な上から目線の物言いを避ける"といった規範を、対処法として学ぶというよりも、空気を読むように踏まえているといっていいだろう。ネットにおいて批評家が嫌われるのは、このようなメディア環境の変化の中で自然に定着しつつある振る舞いの結果でもある。
世代によって異なる批評との距離についても考察が必要だろう。ポピュラー音楽研究者の大和田俊之は、著作『アメリカ音楽の新しい地図』の中で"批評家が嫌われている"という状況を、ミュージシャンのチャンス・ザ・ラッパーがスパイク・リー監督の映画『シャイラク』にツイッター上で噛みついた話を取り上げながら論じている。
映画『シャイラク』は、シカゴのギャングの抗争が絶えない地域の女性たちが、抗議の意味で男たちとのセックスをボイコットする物語で、古代ギリシャの戯曲『女の平和』を下敷きに仕立てたもの。チャンスは「リーの解釈行為そのものに苛立っている」(114頁)のではないかと大和田はいう。
シカゴの女性たちの置かれた状況を当事者以外が作品化すること。つまり女性でもシカゴ出身でもないリー(チャンスはシカゴ出身。リーはニューヨーク出身)が作品として描くことは、他者の置かれた状況を勝手に「解釈」することに他ならない。その暴力性をチャンスは咎め、噛みついたのではないかと。