評者:川勝徳重
時代劇画を描ける作家が、ここ数年で相次ぎ故人となった。貸本劇画の白土三平と岡本鉄二の兄弟(『カムイ伝』)や、さいとう・たかを(『無用ノ介』)、絵物語の植木金矢(きんや)、挿絵画家の中一弥(なかかずや)、みな高齢ではあったが寂しいものだ。そして昨年、平田弘史(ひろし)(『薩摩義士伝』)も亡くなられた。
この平田の実弟が、とみ新蔵である。偉大な兄の陰に隠れることも多かったが、近年リイド社の時代劇画誌『コミック乱』に「剣術抄」と題した劇画を立て続けに発表している。
『剣術抄』1~2巻は続き物だ。仇討(かたきう)ちのため剣術修行に励む主人公が深山に棲む剣の達人と天女(この二人は四六時中セックスしている)に導かれ、タイムスリップし、ローマ帝政期のコロッセオの剣闘士や、ブルボン朝のダルタニアン卿と手合わせして腕を磨く怪作。
3巻「新宿もみじ池」には、剣の師匠が親父の仇だと知る男の物語と、虎と戦うことになった武士の物語の2篇が収録されている。
『卜伝(ぼくでん)と義輝(よしてる)~剣術抄~』は、塚原卜伝が足利義輝に奥義を授けた逸話を基にした、二人の出会いから永禄の変までの物語。いずれも「則天去私」の境地に達した武士が、それでいてなお、現実のままならなさに苦しむ様子が描かれる。
とみ新蔵の主人公はよく泣く。彼らは、自分が今いる場所にしっくりきていない者ばかりだ。卜伝も、一ヵ所にとどまることができないと独りごち、老年になれば膝を痛めて脱糞に苦労し、弟子の死に涙して後悔をする。英雄らしい英雄は出てこない。
とみ新蔵は人物のさりげない所作を細かくコマで分節化する癖がある。例えば袴の着付けの方法を、着付け指南書の参考図版のように、数コマにわたり色々な角度から描く。
ユニークな点は、その考証へのこだわりを殺陣の場面に応用することだ。2巻終盤の長い仇討ちのシーンでは、人物がどのような意図で刀や身体を動かしたかを細かく説明しながら展開する。とある武士が死ぬ瞬間。
「ミゾオチから心ノ臓へ! 刃士郎(じんしろう)は全身に、落雷したような衝撃を感じた! すぐに周囲が暗闇になったが、刃士郎は五歩歩み─五回、刀を振って、崩れ落ちる。庭石に後頭部をぶつけたが、何も感じない。すでに脳への血のめぐりはなく、脳死していたからである」
これが2ページ8コマに分節化される。現代マンガでは、主人公に感情移入させる演出がしばしば是とされるが、それとは正反対の客観的な演出だ。絵物語形式と劇画の融合とも言えるし、森鴎外や菊池寛などの純文学寄りの時代劇の客観描写を応用した、モダンな講談様式なのかもしれない。客観描写は「天に則り私を去る」剣豪の生き様とよく響き合う。であるからこそ主人公の堰を切ったような涙、感情の噴出が、胸を打つのだ。
21世紀、時代劇画が終焉を迎えつつあるときに、かような傑作が生み出されたことに感謝したい。
(『中央公論』2022年12月号より)