評者:吉田伊知郎
建国記念の日は1966年に制定され、翌年から実施された。1967年2月公開の大島渚監督『日本春歌考』には、同年2月11日前後の空気が、濃密に映し出されている。最近は春歌と書くと、季節に絡めた「春うた」と取られて誤解が生じることもあるというが、ここでは猥歌を指す。添田知道(そえだともみち)の同名書(光文社カッパ・ブックス)から題名のみ借用した大島は、春歌をちりばめた映画を企画し、松竹との提携が決まる。しかし、内容は白紙で、公開日まで2ヵ月弱しかなかったため、全国公開の松竹映画にあるまじきアナーキーな作り方を実践することになる。
それが、シナリオなしで撮影に突入するという手法だった。実際には大まかな流れを記したイメージ台本が作られ、各場面の撮影時には、直前に用意された台詞が出演者に配布されたようだが、それでも、どこにたどり着くかわからない、即興性に満ちた怪作が誕生しようとしていた。
実際、完成した映画を観ても、真面目にストーリーを追いかけると混乱は必至。ガス中毒の恩師(伊丹一三)を見殺しにした男子高校生は仲間と性的妄想に耽り、さらに在日朝鮮人問題、騎馬民族征服王朝説まで持ち出されて、唐突に終わりを迎える。それでいて中毒的魅力を持つ(筆者は年に一度は観てしまう)のは、彼らが東京を歩き続けることで映し出される1967年2月の風景に理由がある。
冒頭、学習院大学の奇抜なピラミッド校舎が雪の中に映し出され、受験を終えた荒木一郎ら4人組の男子高校生が出てくる。そこから彼らは御茶ノ水の橋を渡り、黒い日の丸を掲げて山の上ホテル前の道を下ってくる紀元節復活反対のデモと遭遇する。この雪が降りしきる東京の風景と、黒い日の丸が絶大な異化効果を見せる。終盤の荒木と小山明子が首都高速道路の未開通部分を延々と歩く場面からも明らかだが、非日常的な東京の風景こそが本作の主役である。歩くことで風景が躍動し、リズムが生まれる。そして立ち止まると、春歌をはじめとする数々の歌が流れてくる。風景と歌のみで映画が成り立つことを立証してみせるのだ。
ところで、昨年は本作を想起させる日本映画が2本あった。瀬戸内寂聴と、妻子のある井上光晴との関係をモデルとした『あちらにいる鬼』は、荒木一郎の歌で始まり、『日本春歌考』を観に行くシーンもある。その後に二人が歩く場面では、前述の首都高を歩くカットをアングルも忠実に再現しつつ、春歌が口ずさまれる。映画によって時代の空気を再現するのだ。
もう一本、新海誠監督のアニメーション『すずめの戸締まり』は、御茶ノ水が重要な舞台となり、劇中に歌が次々と登場する(当然、春歌ではない)。大島が騎馬民族説を通して天皇に触れたように、劇中で皇居の地下に要石を置いた新海は、地震を鎮める「閉じ師」が「裏天皇のような役割」であると語る。大手映画会社で天皇を劇映画のなかへ密かに導入した映画たちを、建国記念の日に連動させて観るのも一興ではないだろうか。
(『中央公論』2023年3月号より)