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武田徹 立花隆と両親に影響を与えた、長崎での生活とは。思想の原点を探る

『評伝 立花隆』 立花家に影響を与えた長崎での生活とは
武田徹

橘夫妻、それぞれの自由学園との関わり

 ただ無教会主義のクリスチャンであった橘夫妻が自由学園と接近したことはキリスト教信仰においては違和感も残る。

 羽仁もと子が教育と宗教を隔てる姿勢を取っており、自由学園には礼拝堂も教会もなく、牧師もいなかったことから「無教会」と紹介されることはあるが、それは内村に始まる、いわゆる無教会主義とは別もので、キリスト教研究においては自由学園を無教会主義の活動だと紹介することはない。もと子の夫・吉一は内村との宗教的交流を否定し、植村正久との師弟関係を強調する文章を残してもいる。

 しかし関東大震災直後に羽仁夫妻と内村が共に軽井沢から帰京していたなど、両者の親しさをうかがわせる事実も記録に残されている。そうした事実を踏まえて自由学園図書館資料室の村上民は「単に内村鑑三やそのグループとの人的交流の側面だけでなく、無教会キリスト教と自由学園のキリスト教の構造に関する比較検討」が課題になると書いている(「自由学園草創期におけるキリスト教と『自由』問題」、『生活大学研究』2020所収)。

 実際、内村が無教会主義における教会を「紙上の教会」と喩え、雑誌発行による同志とのコミュニケーションを重んじたところは、『婦人之友』を発行し、それを芯として会員同士がそれぞれの地域で活動してゆくことを考えた羽仁もと子と似た構図がある。

 そうした類似性をどの程度、意識していたかはわからないが、羽仁夫妻が教育活動において教会と距離を置いていたことは、無教会主義者だった立花の両親にとってとりあえず都合が良かったはずだ。加えて文部省派遣教師として国語、漢文を教えていた経雄にしてみれば北京生活学校の教育は興味深いものだったのではないか。自由学園は「生活即教育」をスローガンとし、生徒たちが自分たちの生活を実践する中で学ぶことを重視した。北京生活学校でもそうした自由学園イズムは一貫しており、上級生と下級生が生活を共にする中で、日本語を教え、学んでゆく。日本の実効支配圏ではどこでも日本語教育が行われていたが、なかなか成果が出なかった。それに対して、生活即教育の考え方で実践活動を通じて日本語を教えた北京生活学校の教育は非常に効果的だったという。

 国語教育に携わる経雄がその実情を確かめにしばしば学校を訪れていただろうことは推測に難くないし、龍子も自由学園北京生活学校を訪問したことがあったという。そして自由学園とその関連組織である「婦人之友」友の会と龍子の関係は、終戦後、一段と深まることになる。

武田徹
1958年生まれ。ジャーナリスト、評論家、専修大学文学部教授。国際基督教大学大学院比較文化研究科修了。著書に『流行人類学クロニクル』(サントリー学芸賞受賞)、『「隔離」という病い』『偽満州国論』『「核」論』『戦争報道』『原発報道とメディア』『暴力的風景論』『日本語とジャーナリズム』『なぜアマゾンは1円で本が売れるのか』『日本ノンフィクション史』『現代日本を読む』など。
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