- 戦前、戦中の長崎
- 洗礼を受けた母
- 海を渡った立花家
- 日本支配下の北京で
- 橘夫妻、それぞれの自由学園との関わり
戦前、戦中の長崎
後の立花隆、本名・橘隆志が生まれたのは1940年、長崎市だった。
日中戦争が激しさを増し、太平洋戦争が始まる直前の時期である。その時、橘一家が長崎で暮らしていたのは、父親の経雄が活水女学校で国語と漢文を教えていたからだ。
活水女学校はアメリカ人女性エリザベス・ラッセルが1879年に創設したミッションスクールで、「活水」は、『ヨハネによる福音書』4章の生命の水を巡るイエスとサマリア人女性との対話に因むという。
早稲田大学国文科を卒業した経雄は、大学時代の友人のツテでこの活水学院に職を得て、34年に長崎に転居したという。しかし、日米間の緊張が高まると、欧米に母体があり、本国より派遣された外国人宣教師が開設、運営にあたっていたミッションスクールへの風当たりも厳しくなっていた。
二・二六事件が起きた1936年、活水学院の生徒にも満州派遣軍の見送りや、戦死者の招魂祭への列席が要請された。9月に入ると防空演習が学内で実施され、屋上に軽機関銃が備え付けられた。1937年4月にはホワイト校長が県庁に赴き、「御真影」を拝受している。26年間、活水で校長を務めてきたホワイト女史はその後、米国に一時帰国したが、その後は体調不良を理由に二度と日本に戻らず辞任する。空席となった校長には岡部副校長が39年9月に着任した(活水学院百年史編集委員会編『活水学院百年史』より)。
40年6月に日本政府は教会やキリスト教主義学校に対して「ミッションから人的、経済的に独立するよう」通達を出した。活水女学校でもアメリカからの助成金交付が打ち切られる中、外国人教師に代わって雇用した日本人教員の給与を捻出しなければならず、経営環境は悪化する。教職員で菜園を運営し、収穫した野菜を販売して糊口を凌ぐような努力もなされたが(同前)、焼け石に水だった。職員の定期昇給が一切なくなり、兄・弘道に次いで次男の隆志が生まれ、二人の子どもを抱えた橘家は長崎で生活を続けることを断念。経雄は文部省の派遣教員として中国に渡り、北京市立師範学校で教える道を選んだ。