評者:沼野雄司(桐朋学園大学教授)
坂本龍一は、この世を去る数日前まで(いや、数日前だからこそ、というべきかもしれないが)、自分の葬式でかける楽曲選びに余念がなかったという。本書の巻末には、そのリストが付されている。
ある程度の音楽ファンならば、やや意外な印象を受けるはずだ。グールドの弾くバッハ、ブダペスト弦楽四重奏団によるドビュッシー、ホロヴィッツの弾くスカルラッティ、小澤征爾指揮の武満徹、マリナー指揮のサティ、といったラインナップは、まるで素人が選んだ一昔前の「名曲・名盤」のようで、どこかちぐはぐなのだ。誤解をおそれずにいえば、少々「ダサい」。
しかし、これこそが坂本という人の本質だとあらためて思う。知性と俗が分かちがたく一体化しているといったらよいだろうか。そして、どこか無防備。こうしたあり方は、幼い頃から愛されて育った人に独特のものだ。
実際、坂本が母親について語ったくだりを読むと、よくわかる。帽子のデザイナーをしていた「ヒマワリのような」彼女は、小さな坂本を映画や、時には平和活動団体の集会にも連れてゆく。そして「若尾文子って本当に綺麗だよね」と無邪気な問いを投げかけると、「そうかしら?」と対抗意識を燃やしたりもする。さらに驚くことには、20代の坂本が恋人との同棲を一方的に解消した際には、母親がわざわざ先方に挨拶しに行ったというのだ。なんという過保護のママっ子!
坂本のどこか甘えたような口調、不愛想なのに愛嬌がある表情は、こんな育ち方ゆえなのだろう。この坊ちゃんはしかし、YMOの活動、映画『戦場のメリークリスマス』の音楽、そして『ラストエンペラー』ではアカデミー作曲賞を獲て、世界的な音楽家へと成長していった。
本書の大部分は2009年以降の坂本の活動報告といってよいだろう(それ以前については前著『音楽は自由にする』に記されている)。その掛け値なしに「国際的」で華麗な活動には、ただただ圧倒されてしまう。
フランスから勲章を得て、ヨーロッパとアメリカをまたにかけてツアーを行い、アイスランド、UAE、中国などで次々に大規模なプロジェクトをこなす中、レオナルド・ディカプリオ主演の『レヴェナント』をはじめとする映画音楽の依頼が舞い込み、フライング・ロータスやサンダーキャット、BTSといった若いスターたち、そしてボウルズやベルトルッチ、李禹煥(リウファン)、ビョークといった重鎮と交流したかと思えば、合間に自らのアルバムを発表する。日本のポップ・ミュージシャンとして空前絶後の活躍といってよいだろう。
同時にこれは辛い本でもある。なにしろ冒頭は、2020年、全身にガンが転移していることがわかり、「何もしなければ余命は半年」と宣告されるエピソードから始まるのだから。そして最後に置かれているのは、遺族から編者にわたされた、メモのような日記。亡くなる4日前のそれは「気力がない」と一言だけ。その苛酷なリアリティには絶句するほかない。
かくして、坂本龍一という人は、最晩年にいたるまでの活動を詳細に記し、あの「リスト」まで作り、あまりにも完璧なかたちで、皆から愛されながらこの世を去っていった。どこか出来すぎで、ズルいような気がしないでもない。
(『中央公論』2023年9月号より)
◆坂本龍一〔さかもとりゅういち〕
音楽家。1952年東京都生まれ、2023年3月28日死去。
著書に『音楽は自由にする』、共著に『音楽と生命』『skmt 坂本龍一とは誰か』など。
【評者】
◆沼野雄司〔ぬまのゆうじ〕
1965年東京都生まれ。東京藝術大学大学院音楽研究科博士後期課程修了。博士(音楽学)。著書に『エドガー・ヴァレーズ』(吉田秀和賞)、『現代音楽史』(ミュージック・ペンクラブ音楽賞)、『音楽学への招待』など。