──本書は時間をキーワードに、フィリピン・マニラのボクシング・キャンプや、都心のスクオッター地区など、貧困世界を生きる人びとを描いています。職業としてのボクサーは、フィリピンでどのような位置付けなのでしょうか。
フィリピンでは、ボクシングは学歴や家庭環境などと関係なく、自分の腕一つで、有名になったりお金が稼げたりする手段としてあります。タイのムエタイと同じですね。日本やアメリカのような練習用に特化したボクシング・ジムと違って、フィリピンには住み込みのボクシング・キャンプがあることも選手になるハードルを下げています。彼らの多くは一人暮らしをする経済的余裕がないのですが、そこでは食事や寝床を与えてくれるし、同世代の仲間たちがいて帰属意識も生まれる。
ストリートにいると仕事を得るのが難しく、匿名的な存在になってしまう、と彼らはよく言います。ボクサーになれば自分の名前を呼んでくれて、個人として認めてもらえる。それは彼らにとってとても嬉しいことです。「いま自分はこれをやっているんだ」と、人に胸を張って言えることがあることは重要です。
──ご自身もボクサーとして、現地で選手と一緒に練習をしています。それにより見えてくるものはありますか。
座って外側から観察していることと、3分間一緒に動くのとでは、例えばあと2分10秒残っているときの絶望感が違います(笑)。野球を例にとるなら、同じ時速130キロのボールでも計測器で測るのではなく、バッターボックスに入って見ると、速度感が違いますよね。野外調査も時間の「中」に身を置いて考えることが大切です。こうした速度感に留意して、私は「タイミング」という言葉を使いました。
そのような時間性を手がかりに、この本では「アウェーの時間」に焦点を当てました。フィリピンのボクサーは日本で試合をするとき、敵地のリングに上がることになる。そこに至るまでには長時間の移動や慣れない食事、試合の開始時間の遅れ、ひどい場合にはドタキャンなど、数多のハプニングが付き物。体重を管理しなければならないボクサーにとっては大変なことです。
また、マニラのスクオッター地区で、住み慣れた家を破壊されて再居住地へと移送される人びとも、アウェーの時間を過ごしています。都市再開発のために強制撤去が行われるのですが、そのタイミングは住民にとって不確実です。立ち退きの通知が何度も送られてきて、「期限までに立ち退かなかったら強制撤去するかもしれませんよ」「今回は予算がなかったから行いませんでした」ということが繰り返され、あるとき突然、実行される。そうした時間の中で生きるとはどういうことかを考察しました。アウェーの側に置かれるからこそ、ホームにいては見えてこない社会の根底的な成り立ちが見えてくるのです。
ある研究者から、メールで本書の素敵な感想をもらいました。「石岡さんは学問貴族になれるだろうけれど、それを必死に否定して、学問は貴族ではなくて、スラムにいる人びとの生活の中から立ち上がるべきである、ということをシンプルに言い続けていますよね」と。ある意味、核心を突いているかもしれません。
──今後の研究テーマは。
抽象的に言えば生理学的身体論、具体的には「肺の社会学」を構想しています。身体の境界は皮膚だと考えられがちですよね。けれどそれは物理的な境界で、生理的な境界は肺だと思うんです。空気中の酸素は肺で血液に取り込まれるから。
私の父親は自動車の修理工として働いて肺気腫で亡くなりました。これまで、高度成長期に工場で汚れた空気を吸いながら働いたことが原因で亡くなった人もたくさんいると思います。肺という生理的な身体と、社会との境界線を研究テーマに落とし込もうとすると、例えば慢性気管支炎や肺気腫の人たちの生活史を聞くかたちが考えられますが、ぜひやってみたいと思っています。
(『中央公論』2023年9月号より)
1977年岡山県生まれ。日本大学教授。筑波大学大学院人間総合科学研究科博士課程単位取得退学。専門は社会学、身体文化論。単著に『ローカルボクサーと貧困世界』(日本社会学会奨励賞)、共著に『質的社会調査の方法』『生活史論集』などがある。