[文学的近況]目の検査、賞、陽性、いもむし 津村記久子
去年の十二月に、眼科にコンタクトレンズを作るための検診に行ったところ、眼圧が高いと言われた。緑内障になりやすい目をしているのだという。半年以内にまた検査に来てください、と言われたものの、半年以内には行けず、八月に行った。テレビのCMでもよく流れているように、緑内障はとても怖い病気だ。一度なると治らない。ただ、早期発見できるのであれば、おかしな状態になってから病院に行くよりずっといいそうなので、いろんな覚悟をして行った。
結果、まだ緑内障ではないし、眼圧も正常の範囲内だとのことだった。まだ緑内障ではなかった。それでもうこの八月はいいやと思っていた。八月十二日に、大学時代の友人たちと姫路で会ったこと以外は何にもない八月で、暑いしどうしようかなあ、とぐずぐずしているうちにサマーソニックのチケットも完売してしまったけれども、この猛暑と自分の年齢を考えると、ある意味安心もした。
なのでやっぱり、自分はまだ緑内障でないということだけで充分だと思っていた。そのままつつがなく日々が過ぎてこのまま何となく秋が来て、それで今年がクシャッとつぶれるように終わればいいと思っていた。そんな後ろ向きなことを言ってしまうのは、今年の最初の半年が本当に厳しかったからだ。
一月にやった単行本の作業は、これまで小説の仕事をしてきた中でいちばん厳しかったし、その厳しかった内容についても、ただの「ハードだった」ではないし、その後もここには書けないような腹立たしかったり悲しかったりするようなことがたくさん起こった。基本的には、自分はあまりにも「持っていない」小説の書き手で、そんな世界の何らかの不注意によって見逃されることで、かろうじて小説を書いている自分のような書き手は、本来小説を書いて生きていける器ではないので、小説は諦めてしまった方がいいのだろう、と思うところまで落ち込んでいた。
だから、六月が終わった時点で今年は終わったと勝手に思うようにしていた。今年の残りはおまけみたいなものだ。七月には、『水車小屋のネネ』を『本の雑誌』の上半期の一位に選んでいただくということがあって、うれしいという以上に安心した。いろんな人に心配をかけて出版された本だったからだ。その出来事は、自分以上に、毎日新聞出版さんで本を売ってくれている方たちのものだと思った。そして自分としては、その後、八月にあった「まだ緑内障ではなかった」という僥倖だけを大切にして、息を潜めて何もかもやり過ごすつもりでいた。
谷崎潤一郎賞をいただけることになったという連絡が来たのは、緑内障の検査の五日後だった。担当者さんからの電話を三時間取らなかった。SMSも見逃し、Eメールでの「お電話できますか?」という問い合わせに気付いたのは十八時過ぎだった。数時間前に着信したSMSの履歴で、自分は賞をいただけるのだと知って、これはもうだめなんじゃないかと思った。怒られる。どの人もきっと怒っている。こんな失礼なやつにあげたくない。取り消し取り消し。
担当者さんから電話がかかってきて、一応大丈夫そうだ、ということがわかった。とんでもなくありがたい。それと同時に、異常に落ち着かなかった。分不相応なものを拾得してしまったような気がした。次の日から花がぞくぞくと届いて、すぐに玄関がいっぱいになったので、花籠の一つを洗面所に移動させた。
受賞の知らせから二日後、小説のデータが消えた。何年かにわたって着手している長編のうちの、三か月の作業分だった。恐ろしくショックだったが、なぜか落ち着いてもいた。わたしが文学賞をもらうということはこういうことだ。無事でいられるわけがないのだ。おそらく、今、あなたは緑内障ですと告げられる代わりに、小説のデータが消失したのだ。泣きそうだったが、こういうこともある、と思った。それで、最初に書いた文よりもよいものを書こうと三日間がんばって、五分の一ぐらいは取り戻した。
そしてそのことを、週末に会った友人に話して、同情してもらいつつ状況を整理して、その次の週の月曜日に体調を崩した。夕方から微熱が出て、夜中の三時には三十八度まで体温が上がった。
次の日になっても熱は下がらなかった。検査キットで検査した結果、陽性だった。トレーに二本線が出た時の、打ちのめされるような屈辱感と、とりあえずこの先数日の生活の方針が決まったことの変な安堵感は忘れられない。マスクはしていた。携帯は外に持って出たら毎回消毒していた。数日に一回財布は拭いていたし、ハンカチを持ち歩いて家の外で食器以外の何かを素手でさわることはほぼなかった。最近は暑さもあって、外から家に帰ったら必ずシャワーを浴びていた。家の中で着る服と外で着る服は分けていた。それでも感染した。
なにが悪かったのだろう。週末に一緒にいた友人が、検査キットで陰性だったということだけは救いだった。とはいえ、なにが悪かったのだろう。サッカーを観に行ったことが悪かったんだろうか。でも京都サンガのホームスタジアムではずっとなにもなかったのに、ヴィッセル神戸のホームでいきなりこんなことになるってあるか?
結局、今になって、あれが悪かったのでは? という出来事を思い出した。ただ、確証のないことだし、市中感染だろうとしか書けない。おそらくサッカーのせいじゃないだろうというのはよかったと思う。
コロナは本当に嫌な病気だ。風邪だとかインフルエンザだとかと変わらないという言説があるけれども、個人的には熱に耐えていれば必ず消えていくインフルエンザより嫌なものだ。夜中の高熱をベースに、咳・喉の痛み・鼻水・頭痛を回転寿司のように回してきて、時には複数の症状をいちどきにお出ししてくる。そして味覚障害と微熱がいつまでも引かない。発症前はあんなに頼っていたミントタブレットを、食べても食べてもどうしてもまずく感じて吐き出す。
そして発症から六日目の夜中、洗面所に移動させた花籠のユリの花粉が落ちて床を黄色く汚していることに気が付いた。こすったら汚れが広がって気絶しそうになった。賃貸なのに、ここ......。熱が出ている中、いろいろ調べて、二時間ぐらいかけて花粉の汚れを取り除いた。試練だと思った。わたしが賞をもらうということには、このような苦役が伴う。器じゃないからだ。
花粉トラブルから二日後、今度は別の花から出てきたいもむしが玄関の壁を這っているのを発見した。たぶん、何かのチョウの幼虫なのだろうと思う。その日もまだ熱があった。わたしは、キッチンペーパーを取ってきて、そのうえからいもむしをつまんで玄関の外に出た。頭がぼうっとしていた。いつ終わるのだろう、こういうの。
いろいろ考えた結果、いもむしは通路のバルコニーから捨てた。単に床に放してもよかったかもしれないけれども、通路のどこかで蛹(さなぎ)になられたりすると、同じ階の人に迷惑がかかるからだ。元気だったら、コロナじゃなかったら、いったん缶に入れて、次の日に虫かごを買ってきて観察する未来があったかもしれない。
コロナじゃなかったら。キッチンペーパー越しにいもむしが動く感触を今も覚えている。熱よりも覚えている。自分が谷崎賞を授けられることになったという記憶は、あの理不尽に捨てられたいもむしと分かちがたく結びつけられることになるだろう。それでおそらく、自分はそういうことにいつまでも囚われる人間だからこそ、器でなくても小説を書いているのだろうと思う。
1978年大阪府生まれ。2005年「マンイーター」(のちに『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で太宰賞を受賞してデビュー。『ミュージック・ブレス・ユー!!』で野間文芸新人賞、「ポトスライムの舟」で芥川賞、『ワーカーズ・ダイジェスト』で織田作之助賞、「給水塔と亀」で川端康成文学賞など受賞多数。著書は他に『サキの忘れ物』『うどん陣営の受難』など。