評者:桑木野幸司(大阪大学大学院教授)
人は同じ庭に二度と入ることはできない――などと書くと、意外に感じるだろうか。でもあらためて考えてみると、日本庭園の材料はなにしろ石、植栽、水である。時がたてば色も変わるし、かたちも変化する。だから常に仮の姿をまとっている。こんな造形芸術もちょっとめずらしい。
そんな庭にもやはり、固有の姿、というものがある。絶えざる変化の中にあって踏みとどまり、人々の記憶に残る形状。そうした庭の「かたち」はどのように生まれてくるのか。
その問いに真正面から答えようとするのが本書だ。京都の福知山市に鎮座する古刹、補陀洛山觀音寺(ふだらくさんかんのんじ)。その大聖院(だいしょういん)庭園――「斗籔庭(とそうてい)」――を舞台に、2020年4月から1ヵ月あまりにわたって行われた作庭工事の、綿密なフィールドワークに基づく。
老庭師・古川三盛(みつもり)とその弟子たちによるこの新規作庭のプロセスを、初日から密着取材する著者は、庭師にして美学者という異色の経歴の持ち主。まさに最初の石が置かれる瞬間から、緻密なデザイン分析が展開する。行を追うごとに、ページをめくるごとに、紙の上で庭のかたちが組みあがってゆく――。
実際、まるで将棋の棋譜をたどるかのように、1手目から36手目までの石の配置やパターンが、番号を振った図面や写真とともに詳細に分析されてゆく。とにかく初手から最終手まで、一石たりともないがしろにしない。そんな著者の姿勢から逆に、あ、日本庭園の石ってこんなに大事なんだ、と、我々の目からうろこが落ちてゆく。
380頁あまりの分厚い本書の一番の魅力といえるのが、デザインと言葉の葛藤である。著者は目の前でできあがりつつある庭のかたちを、ひたすらに、論理で追いかけ、言語化してゆく。が、老庭師が発する言葉は、そこをひょいとすり抜けてゆく――(庭に園路として埋め込む)延段(のべだん)は「ふにゃっと」曲げる/そこに石を「置いてみて」/「悪くないね」/石を「こっちにも置くかな。たぶんね」。
そんな未分化の思考を、著者は「庭をひらく(ほどく)」「視線のダマ」といった独特の表現ですくいとってゆく。
ひとつ驚いたのが、設計図がないということだ。イメージスケッチすらない。いや、今作りつつある庭それ自体がデザインを練るための設計図なのだ。庭師は大まかなあたりをつけ、石の「求めるところにしたが」い、即興的にかたちを組んでゆく。その仮組みを、一手につき数ページの紙幅を費やして読み解き、おぉ! ついにデザイン原理をつかんだか――に見えたのもつかの間、翌週には石組みが解体されてしまっていることもある。
ここで大きなため息をつく読者もいることだろう。けれども、たとえ最終的なかたちとしては残らなかった造形フェイズであっても、その時組まれていた石の配置は、その次に置かれる要素を「触発」する重要な養分なのだ。むしろ、完成状態(そんなものが庭にあるとして)を見ただけでは決して知ることのできない、現れては消えていった膨大な作庭のプロセスを明らかにし、記録することこそが、本書の醍醐味であるといってもいい。
生成AIによって完成品が手軽に手に入る現代であればこそ、創作の背後にある無限の可能性の重み、そして魅力を、本書でぜひ味わってほしい。
(『中央公論』2023年11月号より)
◆山内朋樹〔やまうちともき〕
1978年兵庫県生まれ。京都教育大学准教授。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程指導認定退学。
専門は美学。共著に『ライティングの哲学』、訳書にジル・クレマン『動いている庭』などがある。
【評者】
◆桑木野幸司〔くわきのこうじ〕
1975年静岡県生まれ。東京大学大学院工学系研究科博士課程単位取得退学。博士(美術史、ピサ大学)。専門は西洋美術・建築・都市史。著書に『ルネサンス庭園の精神史』(サントリー学芸賞)など。