評者:三浦英之(朝日新聞記者、ルポライター)
「驚くことを忘れた心は窓のない部屋に似ていはしまいか」――。
11月に都内で開かれた第21回開高健ノンフィクション賞の贈賞式で、今回新たに選考委員に加わった東京大学大学院の加藤陽子教授は、選評を述べる際、開高の名著『オーパ!』から冒頭のフレーズを引いて受賞作を評価した。
その場に出席していた私は「いかにも開高らしい、素晴らしい言葉だな」と感嘆したが、すぐに「ん? そんな言葉、『オーパ!』にあったかな?」と思い直した。自宅に帰って読み直しても、やはり見つからない。調べてみると、それは単行本化の際にはボツになった「幻の前書き」であり、作家の死後の2010年に刊行された『直筆原稿版オーパ!』に収録されていることがわかった。開高は奥が深い。オーパ!
同賞の受賞作となった『MOCT(モスト)―「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人』は、私たちの心に大きな窓を開けてくれる作品だ。テーマはソ連の国営ラジオ局「モスクワ放送」、なかでも1942年に放送が開始された「日本語放送」に携わった日本人たちである。
魅力的な人々が放送を担っていた。九州なまりの日本語でソ連当局の発表を日本へと伝えていた元炭鉱労働者。戦時中に雪の樺太国境を恋人と越えた元名女優や、シベリア抑留を経験した元日本兵。ロシア語学習歴ゼロでありながら25歳でモスクワへと渡り、20分ほどの番組を任されて、ビートルズの「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」(ソ連に帰還)を流した、元民放テレビ局アルバイトの青年......。
当局から給料をもらい、当局の許す範囲でしか物事を伝えることのできない放送は、民主主義国家における報道とはいえず、プロパガンダ(政治宣伝)かそれに極めて近いものだった。著者は、30年にわたってアナウンサーを務めた人物に、「ソ連・ロシアの公式見解を伝える仕事は心を苦しめなかったか?」と尋ねる。
答えは「ニュースそのものはロシアの立場を伝えるものだった。これは誰かがしなければならない大切な仕事だ」というものだった。
回答の余白を、2014年末でラジオ放送が終わり、インターネット放送に切り替わった後、長年の日本のリスナーに番組担当者から届けられたという手紙が埋める。
〈私たちは「友情」という強度の高い建材でこちら側からと向こう側から、皆さんと共に「橋」を架けてきました。「橋」は一日で出来上がりませんし、バランスを崩してもいけません。ただし、この建材は政治や経済の力で脆く壊れるものではないはずです。そう信じたい。〉
私たちは今、目を覆いたくなるほどの憎悪や暴力、フェイクニュースが渦巻く時代を生きている。隣国に武力で侵略する超大国や、子どもたちを笑いながら虐殺する為政者や、国民を戦争へと駆り立てるプロパガンダを、私は絶対に肯定しない。
一方で、その惨禍の中にあっても、市民同士のコミュニケーションや文化的な交流によって、傷口をふさごうと身を捧げている人々がいることを忘れずにいたい。
作品の「MOCT」はロシア語で「橋」を意味する。著者の願いがこの一言に凝縮されている。
(『中央公論』2024年2月号より)
◆青島 顕〔あおしまけん〕
毎日新聞記者。1966年静岡県生まれ。早稲田大学法学部卒業後、毎日新聞社に入社。共著に『徹底検証 安倍政治』『記者のための裁判記録閲覧ハンドブック』がある。
【評者】
◆三浦英之〔みうらひでゆき〕
1974年神奈川県生まれ。京都大学大学院修了後、朝日新聞社に入社。著書に『南三陸日記』『五色の虹』『牙』『太陽の子』、共著に『日報隠蔽』など。受賞作多数。