世界の実相に触れるための技術
小川 日本語の「ずる賢さ」には利己的な含意がありますけど、ウジャンジャにはポジティブで社会的な意味合いが多分に含まれています。
ウジャンジャは、流動的な都市世界で他者と渡り合う知恵であり、草の根の人生哲学のようなものでもあり、同じグレーな行為でも文脈によってウジャンジャと言われたり言われなかったりします。これを理解するにはまず、当該社会の文化や社会を広く、全方位的に理解する必要がある。だから人類学者が調べることの9割は無駄になります。でも何より大事なのは、人類学者も「ウジャンジャだ」とされる行為を実践し、現地の人々の評価や反応を見ながら、身体的にウジャンジャな実践の感覚をつかむことです。生成AIには身体性がありませんが、人類学の研究には身体が不可欠なのです。
ところで、ウジャンジャという知恵は、個々人の身体や人生経験に基づいて培われるもので、人それぞれ異なるのですが、個々人の行動データを収集していったら、誰かの人格を完全にコピーしたAIができるのか、ちょっと興味はありますね。
――哲学では、人工知能やロボットが人格や心を宿しうるかどうかが長く議論されてきましたが、たとえばウィトゲンシュタインの著作や発言、行動など人生そのものをデータとして収集すれば、一見するとウィトゲンシュタイン本人と見分けがつかない文章をアウトプットするAIが完成する可能性も......。
古田 技術的には、いかにもそれっぽいことを言うウィトゲンシュタインBOT的なものは、実現可能でしょうね。興味深い話題ですが、ポイントは二つあると思います。
一つは、たしかにAIがウィトゲンシュタインの言いそうなことを言ったり、人の胸を打つ詩篇を生成することがあったとしても、結局はそれに驚いたり感動したり、ほかの哲学者や詩人とのリンケージを考えたりする側、つまりは感じたり解釈したりする側の問題になるということです。AIは詩に感動するわけではないし、面白いジョークを言ったとしてもAI自身は面白いと感じているわけではないので、それらは受け取る側に委ねられている事柄です。
他方で、矛盾しているようですが、やはり誰がそれを言ったのかは決定的に重要です。実在した人物がいるからこそ、我々はその言葉を本気で解釈しようと思える。その人が言ったからにはこの言葉には何かがあるはずだ、と思って解釈に挑むことは、一種の賭けです。AIから出力される言葉に、少なくとも私はそうやって賭けることはできません。
小川 そうですよね。研究者として大事にしていることをすべてAIに置き換えることは、おそらく不可能なのだと思います。
同時に、教育システムにAIや、ゲーミフィケーションの技術を使えないかと考えることはあります。たとえば、参与観察やインタビューで作られたエスノグラフィ(民族誌)を、マルチモーダル(文字や画像、音声や動画などを同時処理するAI技術)なメタバースにできないか、と。メタバースのフィールドに人類学者として行って、いろいろな失敗をし、身体感覚を伴った体験を重ねながら、そこにある文化や社会を理解する、つまり人類学者ゲームのようなものを構想しています。
フィールドワークに行った学生たちは、多かれ少なかれ自己変容を遂げます。自明だと思っていた世界観や価値観が崩れることで強いショックを受けながらも、世界への理解がより深まる。こういう体験は、人類学を志していない人にもそれなりに意味を持つと思うんです。とはいえ誰でもいきなりフィールドワークができるわけではないので、メタバースであっても疑似体験ができれば、異文化を学びたい人や、今いる社会を息苦しいと感じている人にとって何らかの意味があるのではないかと考えています。まだまだ実現への道のりは遠いのですが。
古田 すごく刺激的なアイデアですね。ウィトゲンシュタインは人間の言語活動を「言語ゲーム」という概念で捉えて、傍から見ると無意味にしか見えないやり取りがゲーム内では意味を持つ状況なども分析しようと試みました。それも一種のゲーミフィケーションと解釈すると、人文学や社会科学とAIには、コラボレーションの可能性がかなり広がっているのかもしれませんね。
構成:柳瀬 徹
(前半部分は『中央公論』2024年3月号で)
1978年愛知県生まれ。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程指導認定退学。博士(地域研究)。専門は文化人類学、アフリカ研究。著書に『チョンキンマンションのボスは知っている』(河合隼雄学芸賞、大宅壮一ノンフィクション賞)など。
◆古田徹也〔ふるたてつや〕
1979年熊本県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専門は哲学、倫理学。『言葉の魂の哲学』(サントリー学芸賞)、『はじめてのウィトゲンシュタイン』『このゲームにはゴールがない』『謝罪論』など著書多数。