――本書は「オスタップ・スリヴィンスキー作」で、キャンベルさんは「訳著者」。刊行の経緯を教えてください。
2022年2月24日に始まったロシアのウクライナ侵攻に、私は高い関心を持っていました。この年の秋、執筆の息抜きにネットジャーナルを見ていて偶然見つけたのが、ウクライナ語の原稿の一部を英訳したものでした。
オスタップさんは詩人で、西部リヴィウ在住。戦火を逃れてきた人たちの支援活動をしながら証言を聴き取り、独白という形で77の物語に構成しました。それぞれの物語を象徴するモノやコトを選び出し、ウクライナ語のアルファベット順の語彙集、つまり辞書のように並べた文芸ドキュメントです。報道でよく見かける「大きな言葉」ではなく、「熊」「ココア」「林檎」など、日常のありふれた言葉が並んでいます。
少し読んだだけで、これは非常に重要なものだと思いましたので、まずは英訳者に連絡をとり、つてをたどってオスタップさん本人とオンラインで対話を重ねることができたのです。
英訳を読んだ瞬間に日本語が透けて見えてきました。まるで口ずさむように日本語が出てくる。これは私にとっても滅多にない経験で、井上陽水さんの詞を英訳したとき以来のことです。
――なぜ辞書の形式なのでしょうか。
証言集を編むにあたり、辞書は完璧な形式だと思います。秩序や起承転結がなく、すべての証言がモザイクのタイルのように並列する。辞書は用例が増えるにしたがって膨らんでいくもので、一つの言葉がどう変化するのか、新しい言葉がどのようにしてできたのかがわかります。いわば「語彙の地層」が見えてくるのです。オスタップさんは今も証言を集めつづけています。
――23年6月にウクライナを訪れ、その訪問記「戦争のなかの言葉への旅」が本書の後半に収録されています。
私が現地に着いた翌日に水力発電所のダムが破壊されて、南部では大洪水が起こりました。真夜中にいきなり空襲警報が鳴り渡り、他の宿泊客と一緒にホテルの地下シェルターに避難するという経験もしました。
証言集はもともとウクライナ語で書かれたものですから、どういう状況・文脈で起きたことだったのかがわからなければ、日本の読者とも共有できません。オスタップさんが証言を聞いたすべての人に会うのは難しくても、同じ場所に立って、同じ光景を見ることはできるのではないか。私が研究している江戸時代の人たちの声を聞くことはできませんが、証言を寄せている人は、みないま生きているのです。
なかでも、「猫」と「戦車」の話を寄せたブチャ在住のオレーナさんは印象に残りました。彼女は11階建てアパートの最上階に住んでいるのですが、避難先から戻ってみると、アパート中のドアが壊されていた。ロシア兵は掠奪しながら上がっていったらしく、低層階の部屋は家具まで根こそぎ奪われ、上の階は指輪やパソコンのような高額で軽いものを奪われたというのです。
一人ひとりからこうした話を聞くことが、翻訳する上でとても生きました。実はウクライナに渡る前に、すでに自分では及第点と思えるレベルの日本語訳を準備してありました。現地で少し手直しすれば日本に帰ってすぐに編集者に原稿を渡せるつもりだったのですが......。現地の人たちの生きた言葉に接し、私の優等生的な日本語ではなく、語り手の個性や背景が想像できるものにしようと工夫することになりました。
――今年1月にはスリヴィンスキーさんが来日したそうですね。
各地で開催した対話や朗読のフォーラムには多くの市民が参加してくれました。特に印象深いのは仙台での特別トーク・イベントです。戦争と東日本大震災──記憶の継承のために、体験を言葉にする大切さを確認できました。
翻訳にあたっては、一つひとつの物語を追体験できるように表現したつもりです。開戦から2年経っても終熄の見通しは全く立ちませんが、非当事者がいかに当事者の目線を得られるか。読者にもその空気を追体験していただけたらと思います。
(『中央公論』2024年4月号より)