評者:三木那由他(大阪大学大学院講師)
吸血鬼が将棋にのめり込んだら? そんな風変わりな設定で物語が展開するのが、本作『バンオウ─盤王─』だ。主人公は約550歳の吸血鬼である月山元(つきやまはじめ)。長すぎる人生に退屈しきっていた月山は、300年前にたまたま将棋に出会い、以来その魅力に取りつかれている。そんななか、あるとき馴染みの将棋教室が資金難で苦境に立たされていると知る。そこで月山は竜王戦にアマチュア枠で出場し、優勝賞金を教室の存続のための費用に充てようと思いつく。こうして、人目を避けてひっそりと将棋を楽しんできたひとりの吸血鬼が、初めて表舞台に立ち、一流の棋士たちと対決していくことになる。
本作は吸血鬼ものの一種だが、その焦点の当て方が独特だ。吸血鬼はしばしば定命(じょうみょう)の人間たちが次々とこの世を去っていってしまうことへの苦悩を抱いたりするが、月山は取りたててそのような様子は見せない。血への衝動に悩むわけでもなく、通販で頼んだ豚の血をぐびぐび飲んで「ぷはぁ」と息をついて楽しんだりしていて、特に悩みはなさそうだ。将棋に出会って以降は、終わることのない生にうんざりしたりもしていない。そういった吸血鬼らしい悩みの数々を脇に置き、本作ではもっぱら吸血鬼と人間の生きる時間の違いに力点が置かれている。
月山はもともと将棋の天才ではなく、将棋を知ったばかりのころには対局をしても負けることが多かった。けれど人間と違い、尽きることのない時間がある。眠る必要のない夜に研究を重ね、負けては反省を繰り返し、少しずつ上達してはさらに強い相手と出会い、といった日々を300年にわたって過ごし、その経験の量が月山を強者にした。吸血鬼の時間を生きるからこその強さが、本作では何度も語られる。
他方で、人間と同じ時間を生きていないがゆえに、月山はこれまで目立つことを避けて生きてきた。将棋教室を救いたい一心で竜王戦に挑んではいるが、長く大っぴらに活動するわけにはいかないから、月山にとっては竜王戦が一流の棋士と対局できる最初で最後の機会だ。人間と同じように将来を思い描くことも、「次に対局するときには」と無邪気に語ることもできない。
月山の姿が、私にはこの社会の「普通」を生きられない人々に重なって見える。社会的マイノリティであったり、不登校経験者であったり、障害や疾患を抱えていたりして、ほかのひとと同じ日々を、同じ時間を生きていない人間がこの社会には現に存在している。だから、月山が人間には必要のない工夫をしながら戦い続け、一局一局に喜びを見出す様子が、切なくも愛おしい。
本作にはほかにも魅力的な人物が数多く登場する。月山への愛があふれ出している吸血鬼仲間、吸血鬼退治に来たはずがいつの間にか将棋教室に通うようになった吸血鬼ハンター、そして何よりもそれぞれのドラマを背負って月山の前に現れる棋士たち。たまに切なく、けれど全体的にはコミカルで、熱く、棋士へのリスペクトに満ちた本作を、ぜひ読んでみてほしい。
(『中央公論』2024年4月号より)