評者:三木那由他(大阪大学大学院講師)
私は自分自身がクィアな(この社会で規範的とされる性のあり方から逸脱した)人間として、常にクィアな物語を求めている。そして久しぶりに自分と強く響き合う作品に出会った。本作『ボールアンドチェイン』である。
主人公は「けいと」と「あや」のふたり。けいとは性自認が揺れている人間として描かれる。もうひとりのあやは、見たところ典型的な中年の専業主婦といった様子だが、夫に疎んじられ家庭内で孤独を感じている。
ふたりの物語はわずかな接点を除き、いまのところはほとんど交差することなく、別々に語られている。しかしその一方で、両者は明らかに共鳴し合うような経験をしてもいる。私はそれを「わからなさ」の経験、あるいは「わからなくさせられる」経験だと感じている。
けいとには、自分の性自認がわからない。例えば職場や婚約者の男性の前では「私」と自らを呼び、気を許している美容師の前では「僕」を用いるというように、その場その場で自分のありようを調整しているが、しかし本当の自分がどういう人間なのかはわかっていないように見える。
あやもまた、自分がわからない人間だ。そのことは既刊の第1巻のみでは必ずしもはっきりしていないが、あやはもともと男性に性的、恋愛的な関心がなく、結婚も望んでいなかった。にもかかわらず、病気や経済的困難が重なり、結婚を断り続けられずに押し切られてしまった。けれどあやは、その頃も現在も、おそらく自分自身が何者なのか自覚的にわかってはいない。
しかもこれは、単にふたりが無知だという話ではない。ふたりを「普通のひと」に落とし込もうとする力があちこちで働いているせいで、その「普通」とずれる自分が「わからない存在」となり、ときには「普通のひと」に適合させられることで、「自分が何者なのかわかっていないことさえわからない」ようにさせられているのである。
けいとを「妻になる人間」としか見ない婚約者の視線が、「女性の従業員」としか見ない同僚たちの視線が、けいとに自分をわからなくさせている。あやもそうだろう。妻としての、そして母としての役割を果たさなければならなかった長い年月が、あやに自分を単なる主婦だと思わせ、もはやあやは自分が自分自身をわからずにいることさえわからなくなっている。
私はこのわからなさの経験が、クィアな生(せい)の重要な要素だと感じる。そしてそれは言葉では説明しづらいものでもある。けれど本作は、主人公たちの表情、漏れ出す言葉、周囲の人々の描写を通じて、マンガだからこその生々しい圧迫感とともにふたりの「わからなさ」を直接に知覚させる。
だからこそ、私はこのマンガをクィアなひとにはもちろん、そうでない(と感じている)ひとにも読んでほしいと思っている。この作品の力は、きっと同じ経験をしていないひとにも、そして同じ経験をしているはずなのにそれを「わからなくさせられ」てしまっているひとにも伝わるはずなのだ。
(『中央公論』2024年6月号より)