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角幡唯介「私の極地探検の眠り事情」

角幡唯介(作家・探検家)

就寝中の警戒

 私の活動の根拠地はグリーンランド最北のシオラパルクという村で、毎年この村から氷河を越えて何百キロも北上する。途中でフンボルト氷河という巨大氷河を通過するのだが、ここが海豹(あざらし)の一大繁殖地となっており、その海豹をねらって白熊がうじゃうじゃしている。このエリアを通過するときはいつなんどき白熊が来るかわからず、いつも緊張感がある。日本に棲息するヒグマやツキノワグマは雑食で、基本的に人間を避けるが、白熊は肉食なのでむしろ積極的に近づく個体も多いのである。

 徒歩旅行から犬橇に変えてから、とりわけ白熊が頻繁に来るようになった。おなじエリアでも徒歩旅行時代はテントに白熊が来ることなどほとんどなかったが、いまは旅の間に来ないことなど考えられない。犬の臭いや、犬の餌用に獲ることも多い海豹の臭いに惹きつけられるのだろう。白熊の嗅覚は犬よりもはるかに優れているため、相当遠くにいても風下にいれば感知できるのだ。

 白熊が獲物にアプローチするときは相手にばれないように必ず風下からやって来る。犬は近視で人間よりずっと目が悪いため、風下から近づく熊を目と鼻ではとらえられない。唯一、有効な感知器官は耳だ。足音から接近を感知し、だいたい1キロ圏内に白熊がはいった段階で、普段の鳴き声とはちがう、オン、オン......とくぐもった警戒音を出す。

 何頭かがオン、オン、と吠えだすと、私は反射的に寝袋から跳ね起きて、外の様子を窺い、犬の吠える方角に白熊を探す。最近の旅は3月下旬以降で、時期的にはすでに白夜が近く、夜中でも明るいため白熊がいたらすぐにわかる(白熊の毛は白ではなくクリーム色で、白一色の雪世界のなかではかなり目立つ)。白熊の姿を確認したら、テントの入口に置いてあるライフルをすぐに構えて威嚇し、退散させる。海氷上(つまり白熊と遭遇する可能性がある場所)にテントを張るときは、実包をこめたライフルをつねに入口に用意し、瞬時に発砲できるようにしている。

(続きは『中央公論』2024年9月号で)

中央公論 2024年9月号
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角幡唯介(作家・探検家)
〔かくはたゆうすけ〕
1976年北海道生まれ。早稲田大学卒業。『空白の五マイル』(開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞、梅棹忠夫・山と探検文学賞)、『極夜行』(Yahoo!ニュース本屋大賞2018年ノンフィクション本大賞、大佛次郎賞)、『新・冒険論』『裸の大地』『書くことの不純』など著書多数。
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