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佐々木 敦 「洋楽離れ」から遠く離れて

佐々木 敦(思考家・批評家・文筆家)
写真提供:photo AC
(『中央公論』2024年11月号より抜粋)

Xが「炎上」しました

 2024年8月9日、筆者はXに以下のような文章をポストした。

 日本人が洋楽を聴かなくなった問題、だが30年くらい前まで日本人は「英語がわからないのに洋楽が売れる国ナンバーワン」だったのだ。そして現在、世界では「自国語以外で歌われる曲をわからなくても聴ける人」がどんどん増えている。日本は文化的鎖国状態を極めている。失われたのは経済だけではない。(https:
//x.com/sasakiatsushi/status/
1821765832311239073)

 本人としては特に問題提起をしたつもりではなかったが、このポストは思いがけずバズった。いや、もっとはっきり言えば「炎上」した。いま確認してみたら、9月18日の時点でインプレッション数は419万、ライクは1.07万、リポストは3421、リプライは580。筆者のフォロワーは約3万7000人なので、通常とは比較にならないほど広く拡散されたことになる。

 だが、インプレに比してライクがかなり少ないのは、このポストにむしろ違和感や反感を抱いた人の方が多かったことを示している(だから「炎上」なのだが)。とは言え、リプライや引用リポストは申し訳ないがあまり読んでいない(普段からそうだ。筆者はSNSをコミュニケーションツールだと思っていない)。それでもたまたま目に入った異論には返答してみたこともあったが。

 いささか興味深かったのは「日本人は洋楽離れなんてしていない!」という真っ向からの反論はほぼ皆無で、圧倒的に「それ(洋楽離れ)の何が悪い!」という論調が多かったことである。日本人は「洋楽離れ」しているのかもしれないが、それは当然の事態であり、好ましくも望ましいことであり、いっそ正しい成り行きなのであるとする主張が、とても多かったのだ。

 筆者自身、挑発的に受け取られる危険性を予想していなかったわけではない「文化的鎖国」というやや強めのワードにも、さまざまな、だが不思議なほどよく似たトーンの反論が寄せられた。こちらも「何が悪い!」に近くて、筆者の本意は「ニッポンの輸入文化の終焉」への慨嘆だったのだが、物言いの中には「むしろニッポンは今や文化を輸出しているのだ!」といった筋違いのコメントが少なからず見受けられた。確かにそういう面はある。だが、その事実を認めたからといって「洋楽離れ」を擁護したことにも「文化的鎖国」を否定したことにもならない。

 筆者はそもそもあのポストで、140字以上のことは何も言っていない。日本人は昔よりも洋楽を聴かなくなっている。少なくともそう言えるようなデータがある。一方、海の向こうでは、以前は洋楽(彼らにとっては自国語である英語の音楽)しか受け付けなかった層の中に「英語以外の音楽」を聴く人が増えてきている。だがその昔、おおよそ1960年代の後半あたりから90年代の前半くらいまでは、英語教育が現在よりも更に遅れていたのにもかかわらず、日本には洋楽を好んで聴く層が、それなりの数存在していたのである。ざっくり言えば、日本人はこの30年ほどで邦楽(J-POP)ばかり聴くようになり(もちろん例外はある。「私は今も洋楽が大好き」「生まれてこのかた洋楽ばかり聴いている」という人だっているだろう)、逆に米英人は「自国(語)以外の音楽」を聴けるようになってきた、というコントラストの話である。

 さて、これはとりあえず音楽の話なのだが、おそらく他の領域においても、世界はグローバル化を(良くも悪くも、ではあるが)極めつつあるのに、ニッポンはいわゆるガラパゴス化を、今や引き返し不可能なところまで進行させているように筆者には見えている。しかもなぜだか胸を張って。繰り返すが、筆者に押し寄せたクソリプ、もとい批判には「ガラパゴスで何が悪い!」という論調がとりわけ目立っていたのである。


(中央公論11月号では、この後もデータで「洋楽離れ」の現状を確認しつつ、日本の音楽受容/需要、また日本の輸入文化の変容などについて詳しく論じている。)

中央公論 2024年11月号
電子版
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佐々木 敦(思考家・批評家・文筆家)
〔ささきあつし〕
1964年愛知県生まれ。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。文学、音楽、演劇、映画ほか、諸ジャンルを貫通する批評活動を行う。『ゴダール原論』『増補・決定版ニッポンの音楽』『「教授」と呼ばれた男』『成熟の喪失』など著書多数。
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