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令和6年谷崎潤一郎賞発表 『続きと始まり』柴崎友香

柴崎友香
撮影:武田裕介
 中央公論社創業80年を記念して創設された谷崎潤一郎賞は、昭和40年以来、59回にわたり毎年優れた文学作品を選び、それを顕彰してきました。
 本年は第60回を迎え、令和5年7月1日より令和6年6月30日までに発表された小説および戯曲を対象として、選考委員による厳正な審査を重ねてまいりました。その結果、上記のように柴崎友香氏の『続きと始まり』を本年の受賞作と決定いたしました。
 ご協力いただきました各位に御礼を申し上げますと共に、今後いっそうのご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

令和6年10月10日 中央公論新社


(『中央公論』2024年11月号より)

【受賞作】
続きと始まり
柴崎友香(集英社)

〔正賞〕賞状
〔副賞〕100万円、ミキモトオリジナルジュエリー


[選考委員]
池澤夏樹、川上弘美、桐野夏生、筒井康隆(欠席)、堀江敏幸


選評

池澤夏樹

●続きと始まり

 三人の主人公の生活が順番に語られる──
 石原優子 衣料雑貨などを卸す会社に勤め、二人の子の母でもある。夫は会社員。
 小坂圭太郎 何軒かの店を転々としてきた調理師で、四歳の娘がおり、年上の妻は会社勤め。
 柳本れい 雑誌などの仕事をもっぱらにする写真家。四十代なかばで一人暮らし。
 時代は二〇二〇年の三月から二二年の二月まで。つまり新型コロナウイルスによる疫病が蔓延してから一息つけるようになるまで。
 タイトルは作中で石原優子が引用するシンボルスカの詩「終わりと始まり」に由来するが、しかし三人の生活には何かの「続き」はあっても「終わり」はない。そのうちにまた何かの「始まり」が来る。震災の後でコロナが来たように。
 三人とも自ら働きかけるタイプではない。来るものを迎えてその時々考えて対応を決める。逡巡もあるし後悔もある。つまり誠実で平凡な、普通の人たち。優子は遠い過去の男子の心ない言葉と自分の反応をずっと後で思い出して「わたしは悔しかったのか」と気づく。
 圭太郎の妻の貴美子という女性は自分の判断でことを決める。大胆で、かっこいい。言い換えれば彼女のような人が数が少ないところが今の日本のぬるさなのだろう。


川上弘美

●美しい場所

 石原優子、小坂圭太郎、柳本れい、という三人の視点人物の、コロナ禍におけるほぼ二年間の日々の生活を描いた小説である。
 この要約を書きながら、「そうか、小説をまとめてしまうと、こんなふうに平板な言葉になってしまうのだ」と、びっくりした。ささやかで平凡な暮らしを送っているかれら三人は、「ささやか・平凡」という言葉のイメージとは正反対に、豊かな感情をもち、豊かに記憶の中を行き来し、豊かに迷い悩んでいるからである。
「豊かに迷い悩む」という言葉は、もしかすると奇妙にきこえるかもしれないが、本書を読むと、きちんと悩む、ということの切実さと貴重さが、胸にせまってくる。三人のうち、誰も、自分の悩みを、考えのかけらを、迷いを、手放さない。何かをなかったことにして、忘れたふりをして、自分ではない大きなものに倚りかかることを、しない。それはたとえば、かれらに確固とした思想的根拠があるがゆえに大きなものに倚りかからず思考停止をしない、ということでもなく、ただじっと、長く、たえず、自分が感じていることを虚心坦懐に見つめる、ということの中から得られた、柔らかだがたいへんに強靭な態度なのである。
 自身に対してごまかしをできるだけおこなわないかれらは、同時に、他人のことを型にはめたり断罪したりも、決してしない。三人の、静かで神聖ともいえるこの態度を、わたしが、あなたが、もしも持てたなら、世界はほんとうに美しい場所になることだろうという作者の祈りも、強く感じた。


桐野夏生

●後片付け

 災害や事故、戦争などの大きな出来事が起きた時、当事者とそうでない者とは、衝撃の度合いも、その後に流れる時間も違う。運良く当事者でなかった者は、それらの出来事が自分にどういう変化をもたらして、どんな意味があったかを考えることもあれば、忘れてしまうこともある。それが、平穏な日常というものである。そこでは、さまざまな出来事は、繋がりのない切断した記憶としてある。
 しかし、コロナ禍は世界中の人々が同時進行的に経験した大きな出来事だった。誰もが当事者となって影響を被り、不安の中にいた。その意味で、本書の時間が二〇二〇年からの二年間、つまりコロナ禍の真っ最中を描いたことには大きな意味がある。
 コロナ禍では当事者となった私たちが、当事者でなかった、これまでの災害や事故や戦争を振り返る時、他人事として過ごしたはずの日常がにわかに繋がり、意味を持って迫ってくる。つまり、『続きと始まり』である。
 登場人物は三人。滋賀県に暮らすパート主婦の石原優子、東京に住む料理人・小坂圭太郎、同じく東京のカメラマン・柳本れい。この三人の日常生活が順繰りに、そして淡々と描かれる。たいした事件は起きないが、心のささくれは時々ある。それは決まって、言葉にはしにくい、過去と今が繋がる瞬間でもある。その思考が、シンボルスカの詩の中の言葉、「後片付け」のような気がする。


堀江敏幸

●消せない事実を受け入れること

 なにかがわかるためには、なにかが終わらなければならない。しかしその終わりもまた、べつのなにかがわからなくなる前兆にすぎないと考えることで、救われる部分とそうでない部分がふたたび表面化してくる。
 二〇二〇年、コロナ禍のはじまりと翌二一年に延期された無観客東京オリンピックの準備が進む日々をゆるい帯にして、複数の登場人物が節目となる二〇一一年三月十一日、二〇〇一年九月十一日、さらにそれ以前の、阪神・淡路大震災の折に感じていたことを、少しずつ掘り返していく。
 自分の置かれている状況も他人が置かれている状況も深く理解しないまま口にされた言葉について、発言者に疑念を感じ、真意を問い詰め、責めたてるかわりに、なにかがおかしいと感じてしまう当の自分を見つめ直すこと。また、自分が発言者であれば、悪くなかった、無理もなかったと安易な逃げを打たずに、「言ってしまったことは、消せない」のだと認識して、その居心地の悪さを正面から受け入れること。
 正しい解はない。解はいつも繰り延べにされ、それでいいのかという不安な状態が維持されるのだ。この煮え切らない心の躓(つまづ)きが、べつの時間のべつの瞬間に光を当て、べつの解釈を示す過程が、こんなふうに力を抜いて書かれるのは稀だろう。ただし、本作が作者の集大成でないことも、他ならぬ作品そのものが保証している。小説とは、終わりではなく始まりにすぎないことを、あらためて教えられた。

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