令和6年谷崎潤一郎賞発表 『続きと始まり』柴崎友香
[文学的近況]あのときの続き 柴崎友香
戦後六十年をテーマにした掌編の依頼を受けたのは二〇〇四年で、私は三十歳だった。六十年の半分。私が生まれる三十年前は戦争中だった。そんなに遠くない、と思った。その翌年、生まれてから三十一年間暮らした大阪を離れて東京で暮らし始めた。
いつ何があったかという記憶は、あのときはまだ大阪にいたから、あの人と話したということはあの仕事をしたときだから、とつながっている。定規の目盛りのように等分に並んではいない。三十年前と言われてすぐに一年の三十倍などと把握できるわけではなく、自分が生きてきた三十年分の時間があってようやく、想像ができる。
今年、二〇二四年の夏は外を歩くのが危険なほど暑かったし、突然の雷雨が毎日のようにあった。急に米が不足していると言われて、スーパーに行ってみると確かに棚にはほとんどなかった。突然の雷雨は「ゲリラ豪雨」という言葉が急に使われ出した年を思い出し、それが二〇〇八年だったと思うのは『寝ても覚めても』に書いたからだ。米不足は一九九三年の夏を思い出すが、あのときは雨ばかりの冷夏で、大学に入った年だった。来年は戦後八十年になり、今、私は五十歳で、その分、思い出す季節もできごとも増えた。思い出すことが増えると、そのつながりはより複雑な増え方をする。一つの季節やできごとが、思い出すたびに、別の形に見えてくる。
そんなあれやこれやも、エアコンのおかげで快適で静かな部屋で思い出していた。小説家という仕事をする前から、私は外に出ることが少なかった。高校三年の秋に書いた小説の中でも、語り手は外出しなくて、「今年の夏が暑かったって知らないのはおまえだけ」と友人に言われる。その年と前年は猛暑だった。液晶画面に二行しか表示できないワープロで書いて右端のダイヤルを回して一枚ずつプリントした小説で、学校に持って行って友達に読んでもらった。二作目の小説で、それから何作書いたのか、数えたことはない。
自発的には外に出ない生活が長いから、二〇二〇年春からの行動制限のあとも自分の生活自体はそれほど変わらなかったはずだ。しかし、数か月して仕事で久々に会う人が、「作家の人はそんなに生活が変わらないっておっしゃいますね」と言うたび、いや、自分はものすごく変わった、と思った。一緒に住む家族もいない私は、目に見える行動としてはそれまでとさして変わらない日々を送りながら、空いた電車や閉まったままの飲食店や人のいない繁華街を見ては、私がいない、知らない人たちの飲み会や海水浴や騒がしさが、ずっと私を支えていてくれたのだと思った。私が家にいても、誰かが誰かに会って楽しくすごしていることで安心を得ていた。
静かで一見変わらないように見える風景と、報道される感染者や死者の数や感染した人や医療関係者の切迫した状況、仕事を失ったり生活が悪化した人の話などは、うまく重ならないままだった。すぐ近くにいるはずの人を実際に自分の目で見ることは難しかった。だからこそ、なにかが変わり続けている、変わり続ける状況に先がわからないまま対応するしかないことの疲弊が、身にしみた。
当初に予想したよりも制限が長く続きそうだと多くの人が考え始めた時期に、この小説を書こうと思い、連載が始まったころには新たな変異株によって仕事関係の人にも自宅待機が相次いでいた。現実の時間の少し後を追いかけて展開がわからないまま書き始めた小説の行く先も、やはり変わっていった。人と話す機会がごく少ない生活の中で、すれ違う人の言葉もしっかりと聞こうとしていた。
自分が経験した二つの震災のことを思い出すことが何度もあった。一九九五年には大阪の自宅で寝ていて、突然巨大な手が家をつかんで揺さぶっていると思った。停電して寒い中でなにが起きたのかわからなかった。外を見に行ってきた弟が「ローソンに百人ぐらい並んでる」と言った。昼過ぎに電気が通じてついたテレビで倒壊した高速道路を見た瞬間に、事態を把握した。二〇一一年は東京にいて、揺れがだんだんと大きくなり、ドアが開かなくなるのを恐れて外に出ると裏のビルが隣の建物にぶつかりそうなほど揺れていた。部屋を片づけながらつけていたテレビで真っ黒い波が何もかも押し流して進んでいくのを見た。どちらの地震のときも、テレビで何が起きたかを知り、それを境に混乱の渦中から、離れた場所を見る側になった。その自分が何を書けるのかと、書けないままで来た。
二〇〇七年にエッセイの取材で石巻の鮎川という港から船に乗り金華山のお祭りを観に行った。二〇一二年二月に同じ場所を訪ねた。港近くの建物はほぼ流されて船は休止し、以前宿泊したホテルはコンクリートだったから残っていて割れた窓に椅子が突き刺さっていた。なにか書かなければと思って行ったのだが、なにも書けないまま十年が過ぎようとしていた。
状況が次々に変わり、先が見えないまま対応しなければならない時期が長くなる中で、この時間をこそ書くしかないのではと思った。どう書けばいいか、確かな答えが現れることはない。これまでも長い間、そうだったから。書くことができない。そこから、小説は始めなければならないのかもしれない。
書いている間はいつまでこの状況が続くのだろうと思っていたが、本として刊行したころには、こんなにも急速に忘れられていくものだろうかと新たな変化に追いつけない感じがして、今現在も、この五年くらいの時間をうまくとらえられずにいる。
本を出してひと月ほど後に起こった能登の地震では、以前の震災と同じようにテレビをつけたが、「震度七」という非常事態にもかかわらず、一日も経たないうちに通常の番組が放送された。この十数年で確実に何かが変わってしまったと、考えてしまう。
私の小説を読んだ人に、今まで忘れていたことを思い出しました、と言われることがよくある。思い出した、というそのエピソードは、私の小説に書いたこととは直接関係がないことも多い。今まで誰にも話したことがなかったんだけど、というのは、秘密や人に言えないことではない。こんなのはとるに足りないことだから、とか、自分の被害はそれほどでもなかったから、とか、どう話していいか、何から話していいか、きっかけがなかったようなこと。誰かが何かを話している間、聞いている人の中に思い浮かんでいることがある。誰かに話したことがなくても、周りからはその経験も思いも見えなくても、人はその経験を抱えて生きている。
『続きと始まり』には、ポーランドの詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩集『終わりと始まり』の言葉が響き続けている。
二〇〇二年、私の一冊目の小説『きょうのできごと』の映画化を希望する連絡をもらった。監督の行定勲さんから、小説を読んでどう思ってどう映画化したいか、丁寧に書かれたメールをいただいた。そこに『終わりと始まり』から「一目惚れ」という詩が引用されていた。今初めて出会ったと思っているけれど以前にどこかですれ違っていたかもしれない、という内容だった。今も手元にあるのはそのとき買いに行った本だ。
二十年が過ぎるあいだに、「一目惚れ」も「終わりと始まり」も他の詩も、何度も何度も読み返した。自分が経験したできごとも、見てきた光景も、あれはどういうことだったのだろうかと何度も思い返した。その言葉もできごとも光景も、ずっと私の中に在り続けたし、つながり続けていて、私は書き続けるのだと思う。
今回の受賞にも、支えられていくのだと思います。
1973年大阪生まれ。大阪府立大学卒。2000年に初の単行本『きょうのできごと』を刊行、同作が03年に映画化される。07年『その街の今は』で、芸術選奨文部科学大臣新人賞、織田作之助賞、咲くやこの花賞を受賞、10年『寝ても覚めても』で野間文芸新人賞、14年『春の庭』で芥川賞、24年『続きと始まり』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。他の作品に『千の扉』『待ち遠しい』『百年と一日』など多数。