評者:トミヤマユキコ(マンガ研究者)
街の食事処で「ボク かん字が読めないのでメニューよみあげて下さい」とお願いする島崎真悟(しまざきしんご)は、日本人だが日本語があまり得意ではない。なぜなら日本に帰国して日が浅いから。じゃあ、その前はどこで何を?
いまから30年前に起こったハイジャック事件で、国際テロ組織LEL(経済解放同盟)に拉致監禁された島崎は、殺害こそ免れたものの、LELのメンバーとしての教育を施され、戦闘工作員として世界中を渡り歩いていたのだった。メガネをかけたこの地味な男にそんな過去があろうとは、誰も思わない。しかし、日本の公安はそれを知っていて、今日も行動を監視している。彼がこの国に馴染んでいけるよう、密かにバックアップしているのだ。
マンガ家の新米アシスタントとして、ぎこちなく作業する島崎。喫茶店バイトで注文を取るのに苦労する島崎。いいぞ、がんばれ。不器用一辺倒かと思いきや、世界のいろんな料理をサッと作れてしまう島崎も描かれていたりして、これはちょっとしたギャップ萌え。こう書くとハートウォーミングな話に思えるが、読者はすでに「島崎真悟が戦場に復帰するのは──340日後のことである」という文言を読んでしまっているのだった。え、復帰しちゃうのかあ。困るなあ。島崎の幸福を祈りたいのに、戦場復帰がいつ、どのように行われるのかが気になって仕方ない。彼のことを純粋に応援したいのに、ちょっと血なまぐさいところも見たいと思ってしまう。こちらを完全なる善人ではいさせてくれない本作の仕掛けを、わたしは気に入っている。これぞ大人のマンガって感じ!
日本でリハビリ的な暮らしをする中でも、必要にかられると、戦場で培ったすさまじい身体能力を発揮してしまう島崎も見所のひとつだ。島崎ってめちゃくちゃ強い。めちゃくちゃ賢い。それが望まずしてテロ組織に仕込まれた能力なのだと思うと、手放しでカッコイイとは言えないというか、言ってはいけないのだが、職人的技巧に通ずるものがあるのもまた事実。いまはその能力を、身近な人のために使っているからいいようなものの、こいつに狙われたら絶対に逃げられないな......。
事情が事情なだけに、自分の過去をあまり詳細に話すことができない島崎をそれとなく見守る人たちが本作に明るい光を招き入れている。中でもわたしのお気に入りは、ぴんからトリオの宮史郎に激似の喫茶店「ルパソ」のマスター。「俺は島崎さんの『今の姿』を信じてます」と語るマスターは実に真っ直ぐなヒューマニストだ。そして、この世界にマスターのような人がどれだけいるかを考えると、暗澹たる気分になる。作中でも、フツーの日本人(そもそもフツーってなんだよ)とはちょっと違う島崎は、ことあるごとに正体を疑われ、まともであることの証明を迫られている。そんな中にあっても、人間の善性に触れ、元テロリストとしての生が変化するなら、戦場に戻ったとしても、きっと何かが違っているはず。それを見届けたくて、本作を読み続けているようなところがある。
(『中央公論』2025年3月号より)