ことばの地域差はなぜ生まれるのか
そこで方言学・言語地理学を専門とする国立国語研究所教授の大西拓一郎氏のもとを訪れた。まずは方言とことばの変化の関係について伺う。
「ことばには合理性と経済性が求められます。例えば不規則なルールが少なかったり、あるいは覚えるべき事項が少なかったりするのが望ましいわけですよね。
ところが言語は法律のような人為的な制度ではありません。どれだけ理にかなった改善案が出されても、使っている人々が受け入れるとは限らないのです。変化を積極的に進めるエリアもあれば、そうでないエリアもある。これが集落や地域単位になったものが方言なのです」
ここで一つ補足をすると、方言とは語彙に限らない。多くの人は方言というと単語やアクセントをイメージすることが多いが、実は文法なども標準語と異なる部分があるのだ。私の母方言である名古屋方言では、尊敬語として「〜ござる」「〜みえる」「〜りゃあす」などのさまざまな敬語形式を用いる。「お客さんが来てござる」「来てみえる」「来とりゃあす」のように用いるわけだが、ポイントは標準語の「お(ご)〜になる」「〜いらっしゃる」と必ずしもイコールではない点だ。例えば「ござる」なら、「雨が降ってござる」などと自然現象にも使える。「雨がたくさんお降りになる/降っていらっしゃる」とはいえないから、これは名古屋方言独自の文法だろう。
こうした前提を踏まえて大西氏の主張を要約するとこうなる。ことばの変化はいわばシステムのアップデートである。一方で、言語は意思疎通のツールでもある。だから変化を積極的に推し進めすぎると、今度はそのせいで意思疎通が難しくなるわけだ。
「自然現象に丁寧な表現を使えるのはステキだ」とあなたが感動して、明日から友達に「あら、雨が降ってござるよ」と言っても、きっとポカーンとされるだろう。相手は「ござる」の用法を知らないからだ。
標準語のように、ことばの変化がすべての地域に広がるのは、実は珍しい。すでに覚えた形式やルールを捨てて、新しい事項を覚えるのにはコストを伴うからである。コストが割に合わないと感じた地域があれば、変化は起きない。その結果、ことばの変化はまるでまだら模様のように、地域差が生まれる。これが方言というわけだ。
前回でも触れたが、言語記号というのは恣意性を抱えている。このあたりが言語を研究する難しさでもあるわけだが、大西氏は「そこに研究対象としての魅力があるような気がしている」と語る。