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『日本 老いと成熟の平和』トム・フォン・リ著/梅原季哉訳 評者:向山直佑【新刊この一冊】

ム・フォン・リ/評者:向山直佑(東京大学未来ビジョン研究センター准教授)
日本 老いと成熟の平和/みすず書房

評者:向山直佑(東京大学未来ビジョン研究センター准教授)

 なぜ日本は「普通の国」――抑制的な安全保障政策を放棄し、他国と同じように軍事能力の保持やその行使を行う国――になっていないのか? 戦後日本の非軍事主義を正面から見据えたこの問いは、ある者にとっては、現状への不満を込めたもの(日本は「普通の国」になるべきなのに、なぜなっていないのか?)になり、またある者にとっては、将来の変化への危惧を含みつつ、現状が変わってほしくないとの願いを込めたもの(なぜ日本は再軍事化せずにいられたのか?)になる。我々が日本社会の当事者としてこの問いを扱うとき、そこに何らかの政治的な意図や思いを介在させずに語ることは非常に難しい。他国と同様、この国でも外交・安全保障政策は、今も昔も社会を分ける重要なイシューの一つである。

 こうした国内ではセンシティブな問題を扱う場合、一定の距離を置いて客観的に分析を行う、海外からの視点が助けになることは多い。本書はその好例である。著者のトム・フォン・リは、米国で教鞭を執る日本の安全保障政策の専門家である。本書は著者の博士論文をベースとしており、コロンビア大学出版局から2021年に出版された『Japan's Aging Peace』の邦訳版となる。

 著者は、日本における軍事主義の歯止めとなってきた要因を、社会構造や技術などのハードウェア的な「制約」(constraint)と、政治あるいは規範などのソフトウェア的な「抑制」(restraint)に分けて冒頭で分類・列挙する。そこには憲法や日米同盟といった、学界でも社会でも広く認知されている要因もあれば、高齢化と人口減少や平和運動など、これまでのリアリスト的な説明では看過されがちであった要因も含まれており、特に後者に紙幅を割いているところが既存研究とは異なる本書の特色だといえる。著者は各章でそれぞれの要因にフォーカスしつつ、データ分析や豊富なインタビューを基に、ただでさえ周辺国と比べて大幅に少ない自衛隊の兵力規模が人口動態の変化に伴い維持するのも難しくなっている現状や、日本の軍需産業が発展できない構造的要因を紹介し、また広島と長崎の平和運動の相違を明らかにしつつ、平和博物館や草の根の活動が市民レベルの平和文化の継承に果たす役割を説明する。

 一国の安全保障政策について論じる本書ではあるが、著者の分析には常に、その社会を構成する一人ひとりへの視線がある。「国」が独立した主体として存在するのではなく、それを生身の人間が形作っていることを著者は忘れない。このように「人」に注目するからこそ、人口動態や平和文化が政策に影響するメカニズムが浮かび上がってくるのだろう。

 評者自身のものも含めて、博士論文を基にした学術書は往々にして、適用範囲のごく限定された問いに対して、シンプルで明確な回答を与えることを目指すものが多い。学問的な厳密さを求められ続けるうちに、自ずと視野が狭くなるためである。しかし本書は、説明が複雑化し拡散するリスクを恐れず、重要な問題に対して包括的な回答を与えることに成功し、しかも明快さを失わない。研究者のみならず、一般読者にも広く読まれるべき好著である。


(『中央公論』2025年9月号より)



ム・フォン・リ/評者:向山直佑(東京大学未来ビジョン研究センター准教授)
【著者】
◆トム・フォン・リ〔Tom Phuong Le〕
米ポモナ・カレッジ准教授および政治学科長。カリフォルニア大学アーバイン校修士および博士(政治学)、カリフォルニア大学デービス校学士(政治学および歴史学)。専門は日本の安全保障政策など。

【評者】
◆向山直佑〔むこやまなおすけ〕
1992年大阪府生まれ。東京大学法学部卒業後、同大学大学院法学政治学研究科修士課程修了。オックスフォード大学政治国際関係学部博士課程修了(DPhil in International Relations)。専門は国際関係論。著書に『石油が国家を作るとき』がある。
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