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『多聞さんのおかしなともだち』トイ・ヨウ著 評者:三木那由他【このマンガもすごい!】

三木那由他
多聞さんのおかしなともだち/ビームコミックス(KADOKAWA)

評者:三木那由他(大阪大学大学院人文学研究科講師)

 内日(うつい)はふたりの女に育てられた娘だ。母たちは同性カップルであることをオープンにし、ふたりのもとには友人たちもよく訪ねてくる。母たちは内日が女性を好きになろうが男性を好きになろうがノンバイナリーのひとを好きになろうがきっと祝福するだろう。

 そんなクィアな環境に生きながら、内日は孤独を感じている。内日は恋愛感情を他者に抱くことがなく、しかしそのことを母たちにはうまく伝えられず、恋愛の話を好む母たちやその友人たちと心地よく語り合えずにいる。

 そんな内日が気を許す唯一の人間が多聞(たもん)さん。多聞さんはほかのひとの目には見えない存在といつもしゃべっている変わったひとだ。ある日そんな目に見えない存在だった多聞さんの友達がひとり、内日の前に姿を現す。そこから、内日と多聞さんの友達との会話が始まっていく。

 本作『多聞さんのおかしなともだち』は、会話と自我の物語だ。ほとんどのページは内日と多聞さんの友達の会話で占められている。内日は作中で繰り返し「二人の女と暮らしている子」と会い、しゃべることを求めているが、それは容易には叶わない。そんななかで現れた会話相手が多聞さんの友達である。本作は会話についての物語であり、会話を始める物語であり、会話する自分になる物語だ。

 会話、特に自分に関する語りというのは、ありふれていながら同時に厄介な代物だ。この世の中にはいくつもの語りのひな型のようなものがあって、たいていの語りはそれに合わせて組み立てられているように見える。

 そのひな型がたまたま当人の自我に合致しているひともいるだろうが、そうでない人間はときに自分とは違う自分をひな型に合わせて語ることになる。しかし、そんなふうに「嘘」をついていると、「ほんまのことがもっと言われへんく」なり、やがては「ほんまの自分がわからんくなってまう」、と多聞さんの友達は言う。

 内日の置かれている環境には、ノンバイナリーの語りも、さまざまな形態の恋愛やパートナー関係の語りもあり、その意味でクィアなひな型が豊富にある。しかしそれでも、内日にはしっくりくるひな型がない。語られなかった自我は、なかったかのように忘れ去られ、幽霊のようになってしまう。

 けれど、内日は会話を始めるのだ。言葉は簡単には出てこない。それでもゆっくりと何度も多聞さんの友達と会話を重ね、それはやがて確かに内日の自我の語りへと接近していく。

 本作を読んでいて、私は何かが救われるような感覚を抱く。それは何よりも、このように何度も言い淀みながら自分自身の会話を始めることが可能であるということが、そこに描かれているからだ。そしてそれが、「マジョリティのなかで生きるひとりのマイノリティの物語」ではなく、クィアであることが当たり前な環境で孤独に生きるクィアの物語であることも印象的だ。

 きっとこうした漫画を切実に求めているひとがいるはずだ。そうしたひとにどうか届いてほしく思う。


(『中央公論』2025年12月号より)

中央公論 2025年12月号
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三木那由他
大阪大学大学院人文学研究科講師
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