極東で緊迫する日ソ両国
満洲事変とその後の満洲国建国以後、日ソ間・満ソ間では満蒙権益確保をめぐる係争が間断なく続けられた。防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書:関東軍〈1〉』では、この時期の満ソ国境紛争が1935年に176回、36年に152回、37年に113回、38年に166回、39年に159回も起きたと記録している。これは年平均で2、3日に一度のペースであり、この時期の極東地域の緊迫度合いが窺える。
こうした日ソ間の軍事的対立は1936年6月に改定された「昭和十一年帝国国防方針」に反映され、仮想敵国は米国とソ連(併せて中華民国と英国)であるとされた。
また、同年8月の四相会議(首相、外相、陸相、海相)で決定された「国策の基準」では、ソ連やモンゴル人民共和国の軍事的脅威の増大に対応するために、先制主義・短期決戦を軍事戦略の基本とすることが定められた。
さらに外交政策としては、1938年夏頃から日独伊防共協定を対ソ、対英の軍事同盟へと強化する動きが日独伊3ヵ国の間で生まれ、日本国内では陸海軍の戦略方針をめぐる対立が浮上した(いわゆる防共協定強化問題)。
他方、この時期のソ連の外交・軍事戦略に目を向けると、ソ連指導部は関東軍の軍事進攻に備えるために極東防衛に大きな関心を払い、第二次五ヵ年計画に基づいてソ連軍(赤軍)の大幅な兵力増員や技術装備の強化などを行い、軍の近代化を段階的に達成した。
また、極東地域で大規模な軍事インフラを建設するとともに、極東軍管区、ザバイカル軍管区及び太平洋艦隊の設立に代表される軍事再編を実施した。さらに外交政策では、東西国境への挟撃という危機を回避するため、自国の軍事力増強だけでなく中国国民政府やモンゴル人民共和国との軍事同盟を締結することで東アジアでの集団安全保障体制を構築した。
特に1936年3月に締結されたソ蒙相互援助議定書は、ソ蒙両国の軍事協力を軍事同盟に近いものに発展させ、同議定書に基づいてモンゴル国内へのソ連軍の駐留が開始された。これに関連し、モンゴル国防大学元教授のガリンデフ・ミャグマルサンボー氏は、1930年代後半のモンゴル人民共和国の国防支出の割合を分析しており、37年に国家予算の49%、38年に52・5%、39年に60・6%を占めていたと指摘する。また、1937年8月に締結された中ソ不可侵条約は、ソ連から中国国民政府への航空機支援や武器提供を明文化したもので、間接的に日ソ関係の緊張の度合いを高めることとなった。
近年の研究成果として、中ソ不可侵条約には極秘の「口頭声明」が存在し、中国国民政府と日本が正常な関係を公式に回復するまでの間、ソ連は日本といかなる不可侵条約も締結しないと密約されていたことが、中露両国の先行研究により明らかにされている。
これらは、1935年7月に開催された第7回コミンテルン世界大会において反ファシズムを掲げた人民戦線の「徹底的展開」や、39年3月に開催された第18回ソ連共産党大会において、ヨシフ・スターリン書記長がファシズム勢力に対する英米仏の不干渉政策及び譲歩を非難したことと連動している。