神代史への問い――天津教事件
1936年の天津教(あまつきょう)事件は、偽史文献として知られる「竹内文献」を所有する竹内巨麿(たけうちきよまろ)らが不敬罪で検挙された事件である。「竹内文献」は、神武天皇の時代よりもはるか昔、数十万年前の超古代史を伝える神代文字の古文書・器物とされるもので、偽史ファンやオカルトファンの間では抜群の知名度を誇っている。
現在では(ごく少数の信奉者を除けば)偽史としての「うさん臭さ」を楽しむトンデモ系コンテンツと化してしまっているが、1930年代の日本ではもう少し「もっともらしさ」があり、少なからぬ高級軍人や華族、宗教家、国家主義者などがこの文献の「拝観」に集まった。太古の天皇が世界全体を統治していたと説く「竹内文献」の神話的物語は、満洲事変をへて中国大陸へと勢力を拡大させようとする当時の日本帝国を鼓舞するものと受け止められたのだ。
もちろん、百歩(百万歩?)譲って「竹内文献」が語るような過去が実在したところで、20世紀の日本が他国の侵略を行う根拠にも言い訳にもなりはしないのだが、このような神話にまで自己正当化の材料を求めなければならないところに、当時の日本の危機的状況があったのだといえようか。
ところが、この文献の内容が『古事記』や『日本書紀』にもとづく天皇家の系譜を乱し、伊勢神宮の権威を汚すとして不敬罪に問われることになる。特高はこう考えたらしい。「竹内文献」は竹内巨麿が捏造したもので、常識的に考えればインチキとわかる荒唐無稽な内容だが、放置すればいずれは真実と誤認され、皇室の系譜や国史を混乱させる日が来るかもしれない。それを予防するためにはここで竹内らを取り締まっておく必要があると。また、「竹内文献」と軍人や国家主義者などとのつながりを牽制する意図もあったと思われる。
裁判は大審院(当時の上告審)までもつれこみ、竹内は最終的に無罪の判決を勝ち取った(1944年)。根本的な争点となったのは、この「竹内文献」が捏造されたものなのかどうか、という問題である。検察側が当代一流の文献学者や言語学者を鑑定人に迎え、不敬文書を捏造したのは竹内本人だとする主張を展開したのに対して、竹内側はあくまで捏造の事実を否認する立場を貫いていく。
興味深いのは、被告側の弁護団が提出した「上告趣意書」である。捏造を認めたうえで不敬の意図のないことを訴えるという裁判戦術もありえたはずだが、弁護団は「竹内文献」が正真正銘の超古代文献であることを堂々と主張している。そればかりではない。いささか奇妙な論法を用いて、この文献の意義を否定する学者や国家に挑みかかっていく。いわく、鑑定人たちは近代的な研究法で「竹内文献」をニセモノと断じるが、近代の知識で神代(かみよ)の昔の文献の真偽を判断できるはずがない。この文献は原始日本文化や原始日本語、そして神代史を探求するための貴重な手がかりなのだから、頭ごなしに否定するのではなく、「第六感」を駆使した新たな研究法で真剣に取り組むべきなのではないか。思想取締りの職にある者は、日本の国体を正しく認識する必要があり、そのためには「竹内文献」から神代史を学ばなければならない、そうでなければ司法官自身が国体を破壊してしまうことになる......。
「第六感」による神代史の研究、相当に怪しげであることは間違いない。しかし、これは総力戦期の日本社会を戯画的に映し出すものともいえる。当時、国体明徴運動を受けて文部省が刊行した『国体の本義』(1937年)にみられるように、神代から連綿と続く「万世一系」の天皇という神話が、公定的な歴史としてあらためて強調されていた。歴史と神話、合理と非合理の境目がぼやけつつあったのだ(永岡崇「近代竹内文献という出来事」、小澤実編『近代日本の偽史言説』所収)。
マルクス主義者の戸坂潤が「眼くそが鼻くそを笑うことは出来ない」と喝破したように(『思想と風俗』)、竹内の弁護団の主張が珍妙であるとしても、国家がそれを一笑に付すことはできなくなっていた。大審院で無罪の決定が出されたことは、そうした状況を反映しているのだろう。つぎにとりあげる事件でも、国家の側の戸惑いが垣間見える。