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チャーチルに学ぶ「政治指導と軍事指導」

細谷雄一(慶應義塾大学教授)
写真提供:photo AC
(『中央公論』2024年9月号より抜粋)
  1. チェンバレンの罠とウクライナ
  2. チャーチルの政軍関係

チェンバレンの罠とウクライナ

 戦後80年を来年に控えるが、ウクライナやガザでは戦争が続いている。日本でも、世界でも、戦時の指導者のあり方に関心が高まっている。本稿では「昭和の戦争」期におけるイギリスの指導者に注目することで、戦時の指導者について考えたい。

 戦争におけるリーダーシップを考える時、ともにイギリスの首相として第二次世界大戦の危機と向き合ったチェンバレンとチャーチルが対照的な存在として語られることが多い。それは今回のウクライナ戦争でもそうだった。

 ロシアのプーチン大統領は、ウクライナ東部でロシア系住民が人権侵害を受けている、その救済のためにウクライナに侵攻するのだと主張している。6月に開催されたウクライナ平和サミットの直前にも、プーチンは、東・南部4州をロシア領とすることをウクライナが認めるならば戦争をやめてもよいと発言した。これはまさにヒトラーが1938年に、チェコスロバキアのズデーテン地方でドイツ系住民がチェコ人から迫害されているとして、その保護のためにドイツへの併合を迫った流れと共通している。

 ズデーテン問題について、当時英首相だったチェンバレンは「はるか彼方の、我々が何も知らない人たちの間の対立だ」と述べて、ミュンヘン会談でヒトラーの主張を認めてしまった。国際連盟の常任理事国であったイギリスやフランスが、国際連盟の規約に反して、加盟国であるチェコスロバキアの領土を同国の了解を得ずに、大国主導でドイツに譲ったのである。このチェンバレンの平和主義──国際法や人権といった原理を損なってでも平和を最優先するという意味での──こそがその後の第二次世界大戦を招いたと主張したのが、アメリカの歴史家アーサー・ウォルドロンだ。彼はそれを「チェンバレンの罠」と呼んでいる。

「チェンバレンの罠」を理解するには、まず「トゥキュディデスの罠」を理解する必要がある。これはハーバード大学のグレアム・アリソンが著書『米中戦争前夜』のなかで提示した概念で、新興国が台頭すると徐々に驕りが大きくなる一方、覇権国には影響力を失うことによる焦りや恐怖が生まれる。この非合理的な感情が戦争をもたらしてしまう、というものだ。古代ギリシャの歴史家トゥキュディデスがペロポネソス戦争の原因を、当時覇権を握っていたスパルタがアテネの台頭を恐れたことに求めたのが命名の由来である。

「トゥキュディデスの罠」を通してアリソンが言いたかったのは、中国の台頭を阻むような政策をとれば米中戦争になってしまう、したがって米中戦争を避けるためには中国に一定の配慮や譲歩をしなければいけないということだった。

 ウォルドロンはこの議論を批判して、むしろ台頭する新興国に譲歩することで覇権国の弱さが示され、新興国に「戦争をしないだろう」という安心感を与えてしまい、戦争勃発につながると指摘する。その象徴として、ミュンヘン会談などを前提に、「チェンバレンの罠」という言葉を生み出した。

 私は、ウクライナ戦争は基本的にこの「チェンバレンの罠」によって起こったと考えている。2014年にロシアがクリミア半島に侵攻しウクライナから奪取した時、当時の米オバマ政権は十分強い抵抗を示さなかった。さらに21年8月にはバイデン政権がアフガニスタンから米軍を撤退させた。そして同年12月にプーチンがウクライナとの国境に兵力を結集し始めた時、バイデン米大統領は「米国とロシアが撃ち合いを始めれば世界大戦になる」と言った。そのことが22年、プーチンにより大胆な攻勢に出る機会を与えた。さらにロシアの侵略後もバイデンは「なんとしても第三次世界大戦を避けなければいけない」と繰り返し、クリミア半島やウクライナ東・南部をロシアに譲ってでも戦争を避けなければいけないというメッセージになってしまった。

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