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新発見史料・海軍『御進講控』とは何か

手嶋泰伸(龍谷大学准教授)
加藤隆義
(『中央公論』2025年10月号より抜粋)
  1. 記録に残りにくい定例進講
  2. 『御進講控』の発見

 7月13日付の『読売新聞』朝刊は、昭和天皇に対する海軍の軍事学の進講に関する記録である『御進講控(自昭和九年二月至昭和十年十月)』を筆者が確認したと報じた。そもそも、軍事学の進講とはいかなるものなのか。昭和天皇にとって、そして昭和史にとって、軍事学の進講とはどのような意味を持っているのか。

記録に残りにくい定例進講

 昭和天皇は即位前、東宮御学問所において教育を受けた。のちの昭和天皇である皇太子裕仁は1901年(明治34)4月29日に生まれ、14年(大正3)3月に学習院初等科を修了し、5月4日に東郷平八郎が総裁を務める東宮御学問所の開所式に臨んでいる。そこから21年(大正10)2月までの約7年間、各分野で特別な講義を受ける。

 例えば、歴史関係の講義を担当したのは、東京帝国大学や学習院で教授を務める東洋史学者の白鳥庫吉(くらきち)。博物学を担当したのは、昭和天皇の生物学研究の師となる、東京帝国大学講師の服部廣太郎(ひろたろう)だ。東宮御学問所時代の講義は、昭和天皇の思想形成に多大な影響を与えたと考えられている。このあたりについては、古川隆久『昭和天皇─「理性の君主」の孤独』(中公新書、2011年)が詳しい。

 だが、実際どのような講義が行われていたのか、その詳細がわかることはまれだ。倫理学を担当した杉浦重剛(じゅうごう)の講義案が『倫理御進講草案』(杉浦重剛先生倫理御進講草案刊行会、1936年)として刊行されているといった一部の例外を除いて、詳細な講義内容は明らかになっていない。

 そして、昭和天皇への教育という点では東宮御学問所での講義が注目されがちだが、実は昭和天皇は即位後も、毎週一定の座学の時間を設け、学び続けていた。ただ、その定例実施された進講についても、東宮御学問所の講義と同様、詳細な内容はほとんど不明だ。

 昭和天皇の言動を網羅的に収集したうえで編纂された『昭和天皇実録』にも、昭和天皇への定例進講の情報はあまり記載がない。海外から帰国した外交官や軍人などが実施する臨時の進講は記録されるのだが、定例進講については、その年の初回、開講の曜日や時刻、担当者の変更の際や、昭和天皇の特記すべき発言のあった際にしか、記載がない。


 
 また、昭和天皇の思想形成に影響を与えたものとしてこれまで注目されてきたのは、人文・社会・自然科学の分野の進講であった。だが、大元帥でもある昭和天皇はかなりの時間、軍事学の講義も受けている。

 軍事学の進講は1930年(昭和5)12月までは木曜日の午前中に、以後は金曜日の午前中に実施していた。ただし、毎年7〜8月、昭和天皇は葉山で過ごすので、その期間は実施しない。また、行幸など別の行事が入っている場合も実施しない。それ以外の1月下旬から12月中旬まで、月1回から多いときで3回、平均的には月2回程度の講義となる。

 軍事学の進講は陸海軍が交互に実施することを基本としていたようだが、テーマによっては説明のためにまとまった回数が必要だったのであろうか、陸軍・海軍がそれぞれ集中的に数回、連続して実施するときもある。

 進講者は最初、陸軍では参謀本部総務部長(のちに陸軍省軍務局長)の阿部信行が、海軍では海軍軍令部第一班長の原敢二郎が宮内省御用掛を兼任して務めていた。海軍では28年(昭和3)1月から海軍軍令部次長の野村吉三郎が、陸軍では2月から参謀次長の南次郎が務めるようになり、以後は統帥機関(参謀本部・海軍軍令部といった、軍の作戦行動を管轄する組織)の次長による進講が定例化した。なお、担当者が変更となる場合は、新旧の担当者が同席して実施されることもある。基本的には侍従武官長が陪聴していた。

 このように、かなりのまとまった時間、それも軍が政治的に台頭する1930年代には、その中枢を担う参謀次長や軍令部次長といった要職にある者が軍事学の定例進講を実施していた。進講の内容は、昭和史を考えるうえで、非常に重要なものであるはずだ。だが、なぜこれまで、軍事学の定例進講が注目されてこなかったのかというと、他の進講と同様、その内容をうかがい知れる史料がまったくなかったからだ。

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