吉野の遺産と信仰
吉野はこの危機に、筆を揮って対応策を示したかったに違いない。しかし、病魔はその暇(いとま)を与えてはくれなかった。
記念館に残されている吉野の絶筆書簡は、1933年2月19日に、明治文化研究会の同志だった鈴木安蔵に宛てたものである(巻頭グラビア参照)。吉野は「病気引籠」が意外と長引いて申し訳ないとした上で、昨今は朝の20分だけ接客に応じているが、「来月に入ればもつと元気づくかと存じます」と記している。それは、現状の見通しというより、友人を励ますため、あるいは自分に希望を与えるためのメッセージだったのかもしれない。
嶋中は35年に刊行した『回顧五十年』(中央公論社)において、「デモクラシイの思想」で一世を風靡し、「適正に進歩的に社会思想を誘導」したのは『中央公論』であり、大正中期の数年間、日本を率いたのは政府でも大学でもなく雑誌であり、「時代」が選んだ「代弁者」こそ吉野であったと述べている。その「代弁」は、大正中期だけでなく、満洲事変以降の「非常時」においてこそ、必要だったのではないか。
五・一五事件によって立憲政友会総裁の犬養首相が暗殺された後、戦前の日本で政党内閣が復活することはなかった。暴力は連鎖を生み、36年には二・二六事件が勃発、政府・軍・宮中の重臣が再び力によって排除される。自由主義への圧力も強まり、35年には天皇機関説事件で吉野の同僚だった美濃部達吉が貴族院議員の座から追われ、政府は機関説を排除、美濃部の著書は発禁となる。これを主導した国家主義団体は東京帝大の自由主義的学者に次々と攻撃を加え、37年には経済学部教授の矢内原忠雄が、翌々年には経済学部教授の河合栄治郎が、教壇から追放された。吉野の論文も検閲を受けていたが、この頃からさらに言論統制が強化され、自由主義的思想は言論界から駆逐されていく。
翻って、現代の世界はどうだろうか。アメリカを例にとっても、デモクラシーの手続きに従って多数を得たトランプ大統領と共和党勢力がアメリカ第一主義を掲げ、民主党勢力や名門大学をはじめとするリベラル派への圧迫を強めて、政治的、思想的、人種的、性的少数派は、居場所を失いつつある。民本主義とは民衆の「利福」や「意向」を重んじ、国際民主主義を伴うものであり、少数派の権利や自由こそ尊ばれなければならないと説いた吉野のメッセージが、重く響く。
吉野の言論活動は、そのキリスト教信仰によっても支えられていた。記念館に、吉野が愛用していた新約聖書がある。米国聖書会社版・改訳(1920年刊行)で、吉野が印象深く読んだ箇所に丸印や罫線が付されている。そのなかで吉野が二重丸を付けたマタイによる福音書の一節を引用しておきたい(ルビは原文通り)。
《凡(すべ)て労(つかれ)たる者(もの)また重(おもき)を負(おへ)る者(もの)は我(われ)に来(きた)れ我(われ)なんぢらを息(やす)ません、我(われ)は心柔和(こゝろにうわ)にして謙遜者(へりくだるもの)なれば我軛(わがくびき)を負(おひ)て我(われ)に学(ならへ)なんぢら心(こゝろ)に平安(やすき)を獲(う)べし、蓋(そは)わが軛(くびき)は易(やすく)わが荷(に)は軽(かろ)ければ也(なり)》
『中央公論』の友人たちや信仰に支えられた吉野その人は、疲れた他者の重みを背負い、彼らを休ませ、柔和な心で自ら軛を負って、平安を与えようとした人物だった。デモクラシーとリベラリズムの危機にある今だからこそ、その寛容で謙遜な自己犠牲の精神を顧みたい。
1976年長野県生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程修了。博士(法学)。ハーバード大学客員研究員などを経て現職。専門は日本政治思想史。著書に『「信教の自由」の思想史』『福沢諭吉 変貌する肖像』『小泉信三─天皇の師として、自由主義者として』『明治の政治家と信仰』など。