いずれにせよ、発足したばかりの菅政権は、事件で揺さぶられ放題、揺さぶられてしまった。その支離滅裂な対応は、日本国民を怒らせただけではなく、当の中国さえ困惑させるものだったと伝えられる。
今回中国漁船の取った行動は、真意がどこにあったのかは別としても、単に密漁して逃げた、といったものとは性格が違う。「従来どおり強制退去させれば、問題がこじれなかったのに」というのは間違いで、船長を逮捕したのは正しい。そうでなければ、「尖閣に領土問題は存在しない」というわが国の主張は正当性を失うだろう。そして日本の法に則って、淡々と起訴し、裁けばよかったのだ。
そうせずに船長を釈放した民主党政権の「言い訳」たるや、まさに語るに落ちるものだった。「釈放は那覇地検の判断」だと、この一件に関する政治の関与を全面否定したのである。「ありえない」対応である。
予算委員会でも質したのだが、「外交関係の処理」は内閣の職務であることが日本国憲法に定められている。日常の外交事務は外務省が行うとしても、国益に影響するような重要案件の処理は、内閣の仕事なのである。仙谷官房長官に、「中国船船長の逮捕、勾留、釈放といった行動が、外交に大きな影響を与えるという認識は、あなたにはありましたか?」と聞くと、「あった」という答えが返ってきた。「だったら、検察に判断を任せるのは、誤りではないのか」とさらに追及したところ、持ち出してきたのが「起訴便宜主義」である。
起訴便宜主義とは、起訴しないほうが当人の更生にプラスだと思われる場合、あるいは社会秩序が平穏に保たれると考えられる場合に、検察官に起訴の裁量を認める法制度である。釈放され帰国した船長は、満面の笑みにVサインで、「また行きたい」と語った。どこに更生の余地があっただろう。起訴しないことで社会秩序が保たれたというのなら、その理由を教えてもらいたい。
そもそも検察官は国民から直接選ばれておらず、責任を負い得ない。だから、今度のような重要な外交問題を判断できるわけがないし、していいはずがない。繰り返すが、決断は、「国民によって選ばれた」国会議員が下さなければいけないのだ。
しかし、「すべて検察の判断」という政府の言い分を信じる国民は少ないだろう。実際には、検察に「圧力」をかけた状況証拠は少なくない。
仮に、中国との外交関係を慮ってあのような対応を取ったのなら、菅総理は即座に会見を開き、次のように内外に訴えるべきだっただろう。
「検察は船長を起訴する方針だったが、諸般の事情に鑑み、私が命じて法相に指揮権を発動させ釈放した。しかし、国民の皆さんは、公開する衝突時の映像を見てほしい。中国船の不法行為は明白である。にもかかわらず、今回は総理の責任をもって、釈放することとする。二度と同じことがあってはならない」
無条件に釈放して、対中国関係が半歩でも改善したとは、私には思えない。逆に、米国や韓国などの同盟国をはじめ世界の国々は、「日本政府は機能しているのだろうか?」と、不信感を高めたことだろう。外交面でのダメージは、決して小さなものではなかった。
民主党の「自分たちは悪くない」
尖閣事件の顛末を、本当に検察任せにしていいと思っていたのなら、国の統治機構が分かっていない。実際には政治判断をしたのに検察に責任を押し付けたのだったら、国民に対して嘘を言っていることになる。今の民主党政権は、無知か嘘つきか、その両方か。とにかく、政権が「自分たちは悪くない」と言いたいがために存在しているような状況は、日本にとっての大きな不幸である。
こうした政権の本質は、「衝突映像流出問題」にも、見事に投影されてしまった。私は、映像を流した海上保安官を立派だとは思わないが、映像が隠されるべきものだったとは到底思えない。
事件前、仙谷長官は、映像が出せない理由を「公判前だから」と繰り返していた。しかし、「犯人」は釈放され、母国に帰ってしまった。どうやって公判を開くというのだろう。日中間に犯罪者引渡し条約はない。処分保留とはいっても、事実上、起訴は不可能である。未来永劫、「公判前」なのである。
他方、衆参両院には、証人喚問や報告・記録の提出を求めることができる国政調査権が認められている。もし、これが発動された時、実際に公開するか否かの判断は法務大臣が行い、それでも困難な場合には総理が決断する、というのが従来の政府の立場である。
今回、そうした対応がありうると考えるのか質したところ、「あると思う」というのが、仙谷長官の答えだった。政治的決断があれば、「公判前」だろうが何だろうが、早い時期に全面公開することは、十分可能だったはずだ。しかし、総理も官房長官も、なんらそうした姿勢をみせることなく、ある日、YouTubeに「流出」する事態となったわけである。
ちなみに、調査権に基づく請求があっても非公開とするのは、そのことによる公益が、公開して得られる公益を上回る場合に限られるということも、判例として確認されている。その基準に照らしてみれば、今回の映像を初めから公開すべきだったか否かは、いっそう明白になる。九月七日に、尖閣諸島沖で中国漁船がいかに不法な行いをし、巡視船がどう対応したのか。その事実を国民が知ることに勝る公益などあるはずはない。
菅総理が国民の知る権利よりも上位に置いたのは、中国との関係を荒立てたくない、という思惑だったとしか思えない。十一月半ばに迫っていたAPECの首脳会議に胡錦濤国家主席を呼び、日中首脳会談を開く。万が一、会ってもらえなかったら、面目は丸潰れ。それを恐れたのだろう。
しかし、それほどまでして実現させた首脳会談は、わずか二〇分。伝えられる情報の限りでは、日本にとって目に見える成果があったとは考えにくい。十月には、ASEM(アジア欧州会議)の会場、ブリュッセルの王宮で「廊下会談」が持たれたが、なんと通訳を帯同させていなかった。胡錦濤主席が何をしゃべったのか、本当のところは日本側の誰も分からないというお粗末ぶりである。これでは、何を話すかではなく、とにかく会うことが目的だったと言われても仕方がない。
準備不足は、官僚を敵視し排除したツケでもある。外務省に限らず、今は政務三役なる人たちが大臣室に集まり、「密室協議」で決めたものを、官僚に申し渡すパターンが定着している。だが、彼らには知識もなければ、官僚を使いこなす心得もない。基本理念もないままにあれこれと決めるから、ちぐはぐなものばかりが出てくる。
責任ばかりを被せられる役人は、当然やりきれない。面従腹背どころか、「こんな人たちには心底ついて行きたくない」と、多くの官僚の心が現政権から離反しつつあるとも聞く。