シナリオ1の中で、海自潜水艦せいりゅうが沖縄トラフに潜んで中国艦隊を待ち受ける場面があるが、日米共同演習でも同じような場面が繰り返されている。沖縄トラフは、九州から沖縄・南西諸島の西側に沿って広がる円弧状の海底の窪みで、幅約一〇〇キロ、最深部は約二〇〇〇メートルに達し、中国沿岸から浅海域が続く東シナ海では最も深い海域だ。日米の潜水艦は沖縄トラフや太平洋側の琉球海溝に潜み、中国の青島と寧波を出港してくる北海艦隊と東海艦隊の潜水艦を待ち受け、撃破する戦術を訓練している。ソ連極東海軍の潜水艦が、宗谷・津軽・対馬の三海峡を通過するのを待ち受けていた戦術と同じだ。だが今、中国海軍の潜水艦の運用が変化し始め、さらに中国の潜水艦そのものの性能も向上したことで、日米の待ち受け戦術にも黄信号が点滅し始めている。
かつて主力だった明級潜水艦や漢級原潜は、スクリューを回転させるときに出るノイズが激しく、「四、五キロ離れていても探知は可能だった」(海自OB)というほどの雑音の塊だった。だが、九〇年代半ば以降にロシアから購入したキロ級潜水艦は、ゴム製の吸音材が潤沢に使われるなど静粛性に優れ、六ノット(毎時一〇・八キロ)程度の低速潜航中であれば、「一キロ前後にまで近づかないと探知することは難しい」という。新鋭ディーゼル潜水艦の宋級や元級も同様で、仮に日中の潜水艦がほぼ同じ水深を六ノットで逆方向から進んで来れば、衝突を回避できる時間は一分にも満たない。ある防衛省幹部は「沖縄周辺海域では、海自と中国の潜水艦が水中衝突する危険性は高まっている」と明かす。
さらに深刻なのは、中国海軍が南シナ海の海南島に建設中だった大規模な艦隊基地がほぼ完成し、「攻撃型及び弾道ミサイル原潜を収容し、地下施設によって潜水艦の南シナ海への出港を秘匿できる」(米国防総省「中国の軍事力二〇一〇」)ことだ。これまで米国の軍事衛星が、黄海に面した青島と東シナ海に面した寧波の海軍基地を出港する中国の潜水艦を完全に把握していた。その情報に基づき、海自はP3C哨戒機や潜水艦などで海域を監視してきたが、今後、中国は潜水艦の中核基地を海南島に移し、台湾とフィリピンの間のバシー海峡から西太平洋に進出するケースが増えると予測されている。
しかも、九五年にロシアから二隻のキロ級潜水艦を導入して以来、中国海軍は静粛性と攻撃力に優れた新鋭潜水艦を急ピッチで増勢し、〇九年には三一隻に達している。このうち、事実上無制限の水中高速航行力を持つ新型の原潜は、現時点では晋級、商級合わせて三隻に過ぎないが、米国防総省によると、二〇二〇年には一〇隻まで増強する計画だ。昨年十二月に策定された新たな「防衛計画の大綱」で、海自潜水艦の態勢は一六隻から二二隻にまで引き上げられたが、今のペースのまま中国の潜水艦が増え続ければ、沖縄トラフで待ち受けるという海自の戦術は、数年後には時代遅れになってしまうだろう。
シナリオ1はそうした近未来を象徴する場面だ。海自潜水艦は二隻の駆逐艦をおとりにした中国海軍の陽動作戦におびき出され、バシー海峡から進出してくる潜水艦に挟撃されるという想定だ。これが絵空事ではない証拠に、昨年三月、潜水艦を含む六隻の中国艦隊は、宮古水道から西太平洋に抜け、その後、艦隊は台湾東岸を南下し、バシー海峡から南シナ海まで進出していた。防衛省幹部は「中国の潜水艦がバシー海峡から自由に太平洋に出てくる事態は、日本にとって、海上交通路という生命線を脅かされる最大の脅威だ」と指摘する。日本周辺海域の"中国の海"化は、静かに、そして着々と進んでいるようだ。