(『中央公論』2022年11月号より抜粋)
- 死による公的な場への復帰
- 改革者? 革命家?
死による公的な場への復帰
2022年9月3日、ソ連最後の指導者ミハイル・ゴルバチョフの葬儀がモスクワで行なわれた。ゴルバチョフはプーチン政権を発足当初は評価していたが、その権威主義的傾向が強まるにつれて批判的になっていった。プーチンによって言論の自由が狭められていく中で、ゴルバチョフは在野メディアの支援も行なった。2014年のクリミア併合には異を唱えなかったが、現政権に対する批判者という基本的な立場は変わらなかった。
それゆえ、プーチン政権に異議をもつ少数派のロシア市民にとって、8月30日に死去したゴルバチョフの葬儀に足を運ぶことは、無言の抗議の意味をもった。政権批判の場と化したという点で、ゴルバチョフの葬儀は1910年のトルストイの葬儀を髣髴とさせた。この作家もまた、帝政政府、並びにそれと一体的な教会指導部に批判的であり、当局から危険人物扱いを受けていたのである。
だが、トルストイの葬儀が本人の所領で私的に行なわれたのに対して、ゴルバチョフの葬儀は国葬に準ずる扱いを受けた。彼の遺体は、モスクワの中心部にある労働組合会館の柱の間に安置され、儀仗兵が配置された。この点ではレーニンやスターリンといった、ソ連歴代指導者の国葬と同じであった。その模様はインターネットで中継され、安全保障会議副議長メドヴェージェフやハンガリー首相オルバンといった内外の政治家が弔問に訪れた。式次第は当局に管理され、数千人と言われる一般の参列者は、献花の後、立ち止まらずに進むように警備員から指示された。
プーチンは葬儀には列席しなかった。9月に始まる新学期に、本年度から導入された愛国教育の初回を自ら講義するという大事な公務のために、西側への前哨地カリーニングラードを訪ねていたからである。それでも彼は葬儀に先立ち中央病院を訪れて、厳粛な雰囲気の中、ひとりきりで、ゴルバチョフの亡骸との最後の別れを済ませていた。
こうしてゴルバチョフの葬儀は、国家によって荘厳に演出されることになった。一私人としてプーチン政権の批判を行なってきた彼は、死によってふたたび公的な場へと戻ってきたのである。プーチンは、ゴルバチョフが私人として悼まれることを望まず、国家による儀式の場に連れ戻したとも言える。
ゴルバチョフの準国葬は、彼の生涯を歴史の中に位置づけるにあたっての最後の事件となった。この事件は、彼が歴史に名を残すことになった、ソ連指導者としての活動の軌跡とは大きく文脈を異にする。この文脈の違いはそのまま、現代ロシア史の転変を物語る。本稿は歴史の中におけるゴルバチョフの役割の検討を目指す。その際、ソ連指導者としての彼の活動と、その準国葬とを、一体的に把握するように努めた。そうすることで、現代ロシア史の転変についても浮き彫りにできればと思う。