新書大賞2022大賞・小島庸平先生 講演動画を公開中!

池田嘉郎 ソ連を崩壊させた革命家、ゴルバチョフ

池田嘉郎(東京大学准教授)

改革者? 革命家?

 ゴルバチョフは改革者であったとよく言われる。それは間違いではない。だが、ソ連指導者としての彼の価値観、および政治スタイルには、改革という穏和な言葉よりも、革命という言葉の方がより合致する。「建て直し」を意味する政策であるペレストロイカのことを、ゴルバチョフは「革命」と呼んだ。筆者はこの発言を単なるキャッチフレーズとしてではなく、額面通りに受け止めてみたい。ゴルバチョフは改革者である以上に革命家だったのである。改革による制度の漸次的な修正ではなく、革命による社会全体の急激な変革を、彼は目指していた。その意味でゴルバチョフは、共産党の規範から外れた異端ではなく、ソ連体制の申し子であった。

 1985年に共産党書記長となったとき、ゴルバチョフが最初に用いたスローガンは「加速」(ウスカレーニエ)であった。これは工業生産をはじめとする諸部門の成長テンポを上げるという意味であり、「革命」を規範とする共産党の世界観とよく合致していた。その世界観においては、人類史は前進運動としてとらえられた。歴史の発展法則にしたがって、人間社会は封建制から資本主義へ、そして社会主義へ、さらには共産主義へと発展していくと考えられた。この前進運動を強力に推進するのが革命である。なお、社会主義と共産主義の違いは何かと言うと、社会主義ではまだ各人の労働量に応じて分配がなされるのだが、生産力がいっそう発展した共産主義では、各人の必要に応じて分配がなされるのである。共産主義のもとでは、分配を管理する機関としての国家の必要もなくなり、徐々に住民の自主的な統治が花開き、国家は死滅する。

 未来へと流れる時の音が轟々と響くこの世界観が、レーニンをして1917年に十月革命を決行させ、スターリンをして20年代末に「上からの革命」と呼ばれる工業化と農業集団化を決行させた。マヤコフスキーの詩(1930年)の一節、「時間よ、前進!」にこの世界観が集約されている。フルシチョフにとってはスターリン批判が、ソ連社会の前進運動に弾みをつける一種の革命となった。ソ連はもはや共産主義の段階に入ったと彼は宣言した。

 フルシチョフが1964年に失脚した後、後任のブレジネフはようやく目まぐるしい前進運動のスピードを緩めた。ソ連は「発達した社会主義」の段階にあるというのがブレジネフの規定であった。「発達してしまった」わけであるから、もはや前進を焦ることはないのである。ところがブレジネフが1982年に没した後、老書記長二人の短い治世を経て85年に登場したゴルバチョフは、「加速」を宣言するとともに、ブレジネフ時代に「停滞」というレッテルを貼った。ブレジネフがせきとめた時の流れに、ゴルバチョフはふたたび「前進!」の掛け声をかけたのである。

 だが、ソ連を「加速」させるのは容易なことではなかった。ゴルバチョフが政権についた時点で、国内産業はかなり時代遅れのものとなっていたのである。1973年のオイルショックを、西側諸国は省エネ化やハイテク化のチャンスとした。だが、産油国ソ連はあぶく銭のような外貨を得たため、産業の合理化を急ぐ必要はなく(そもそも社会主義体制のもと、国営企業に合理化の圧力はかかりにくかった)、省エネ化やハイテク化への転換は遅れた。旧式の工場が稼動し続け、成長率は鈍化した。アメリカとの軍拡競争による軍事費の増大も国庫を圧迫した。

 1986年4月には、試験運転の失敗によってチェルノブイリ原発事故が起こった。この事故は、ソ連の技術的な立ち遅れ、人命軽視の気風、トラブルへの機敏な対応を許さない「官僚主義」の弊害を露見させた。これがきっかけとなり、ゴルバチョフは「加速」よりも大胆で包括的なプログラムを打ち出した。それがペレストロイカである。軌を一にして国際的な原油価格の下落も起こり、ペレストロイカを後押しした。

 生産活動における個々の企業の自主性の拡大、職場改善のための問題提起の奨励などが着手された。だが、社会生活の全領域を統制する党組織は、上意下達の指令経済システムをいじることに抵抗を示した。ゴルバチョフは党組織に圧力をかけるために、「言論の自由」を意味するグラスノスチを提唱し、自身が信頼する言論人を通じて、変革に消極的な党の姿勢を批判させた。世論の喚起が始まり、変革を求める声は徐々に大衆的な規模になっていった。指令経済システムを生み出したスターリン時代に批判が向けられるようになり、「歴史の見直し」が活発に論じられだした。

 ゴルバチョフが錦の御旗としたのは十月革命であり、レーニンであった。党員の間でも党と労働者の間でも、常に活発な議論が交わされていた(と理想化された)原点への回帰が唱えられたのである。こうした原点回帰もまた、歴代のソ連指導者が行なってきたことであった。スターリンの「上からの革命」では、経済運営に「指令」や「突撃」といった軍事用語が頻出したが、ここには十月革命に続く内戦の熱気に通ずるものがあった。無実の市民がドイツや日本のスパイとされて大量に弾圧された大テロル(1936~38年)においてすら、政治警察長官エジョフには、革命・内戦期の前任者ジェルジンスキーのイメージが重ねられた。フルシチョフによるスターリン批判も、十月革命に回帰せよとの掛け声をおのずから伴った。フルシチョフはスターリンという偶像を破壊することで、住民のエネルギーを引き出そうとしたのだった。冷凍保存されていたスターリンの遺体はレーニン廟から引き出されて火葬され、スターリングラードはヴォルゴグラードに市名が改められた。ブレジネフはこの点でも慎重で、露骨なスターリン攻撃を停止させた。だがレーニンの威光は彼にとっても大事であり、1970年のレーニン生誕100周年には全国で祝典が開催された。以上のような伝統にのっとり、かつブレジネフのように儀式面にとどまることなく革命回帰を訴えたのがゴルバチョフであった。1987年の十月革命70周年の演説で、彼は「ペレストロイカとは革命である」と述べた。

 党組織が変革に抵抗すればするほど、ゴルバチョフは世論の動員を拡大して変革を進めようとした。1988年半ばには、党組織と骨絡みであった行政体系の抜本的再編が図られた。その結果、89年半ばまでに西側の議会制に近い制度が導入され、共産党員でなくても議員になれる仕組みがつくられた。この議会でゴルバチョフは、共産党書記長を兼任しながらソ連大統領に選出された。新たな議会制度を導入するにあたり、ゴルバチョフは「全ての権力をソヴィエトへ」というスローガンを持ち出した。これは十月革命の原動力となったスローガンであった。かつて革命を支えた、民衆の代議機関ソヴィエト(評議会の意味)の精神に立ち返ろうというのであった。実際には、革命期に成立した民衆の自主管理機関であるソヴィエトと、ゴルバチョフが導入を進める議会制度は大きく異なった。だが、ここでもまた、「革命」を指導理念としながら変革を進めるゴルバチョフの方法は一貫していた。

(続きは『中央公論』2022年11月号で)

中央公論 2022年11月号
電子版
オンライン書店
  • amazon
  • 楽天ブックス
  • 7net
  • 紀伊國屋
  • honto
  • TSUTAYA
池田嘉郎(東京大学准教授)
〔いけだよしろう〕
1971年秋田県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。東京理科大学准教授などを経て現職。専門は近現代ロシア史。著書に『革命ロシアの共和国とネイション』『ロシア革命』など。
1  2