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君塚直隆×池田嘉郎 歴史に見る独裁と統治のリアル

君塚直隆(関東学院大学教授)×池田嘉郎(東京大学准教授)

統治原理としての覇権主義

──一般にロシア帝国の成立は、ロマノフ王朝のツァーリ(君主)であったピョートル1世がインペラートル(皇帝)を名乗った1721年とされています。その時点で広大な領土を統治していたのでしょうか。


池田 たとえば遠方にあるシベリアにも、イワン雷帝の時代である16世紀には、コサック(武装騎馬民)を送り込んで支配を始めています。ただ当時は行政官を置くようなかたちではなく、広大な地域にバラバラと住んでいたヤクート人などの諸族に対して、コサックが動物の毛皮などを差し出すよう要求するといった関係に過ぎず、しっかり統治していたというレベルではありません。

 また、ロシア帝国による統治は、基本的に地域の社会関係をそのまま温存しました。行政官のうち日本の県知事にあたる人間に強力な権力を与え、彼の下で住民をロシア帝国の身分制に組み込んでいくというやり方です。住民たちは県知事の部下である役人たちに頭が上がりませんが、かといって帝国への忠誠心を内在するわけではありません。

 また、帝国は各地に初等学校を作るといった国民統合政策にも熱心ではなく、地方ごとに裁量を与えられた行政官が管理し、それらを皇帝が束ねるという図式です。シベリアのみならずポーランドやウクライナ、ジョージア、中央アジアも全てこの方式でした。

 ロシア帝国が官僚主義的に見えるのは、人口に対する行政官の数が非常に少ないからです。同時にこの統治構造は、権力者への賄賂など腐敗の温床にもなりやすいのです。

 地方ごとの多様性が強く、地続きでもあるため、本国と植民地の厳格な区別もありません。ロシア正教会はキリスト教の一派ですが、中央アジアにはムスリムも多いなど宗教も多様ですし、ポーランド人の識字率はロシア人よりも高いなど、教育水準もまちまちでした。これらを一元的にコントロールすることは、20世紀初頭までは不可能だったのです。


君塚 帝国による統治を担保するものは、ほぼ皇帝のカリスマ性のみということになりますね。


池田 おっしゃる通りで、皇帝が民に「大国の一員であることの幸福」を与えている、という論理です。この論理で統治する以上、皇帝が率いる帝国は常に大国でなければならず、戦争にも常に勝たねばなりません。そのため日露戦争の敗戦は、統治基盤を揺るがしかねない事件でした。また、ロシアには第一次世界大戦に参戦する必然性はあまりなかったのですが、帝国の庇護下にあったセルビアとオーストリアの紛争である以上、セルビア側に立って参戦しないと帝国の国力は大したことがないと内外に認識させてしまう。それは国内的にも、対外的にも避けなければならないことだったのです。

 つまり、多元的な帝国を皇帝のカリスマ性で支配するという構造が、外交や戦争など国の命運を分ける意思決定をも規定してしまう。それが君塚先生のおっしゃる大陸帝国の一側面と言えるのかもしれません。


君塚 ロシアほど広大ではないものの大陸帝国となったフランスやスペインも、中世までは幾つかの王国に分かれていて中央に皇帝など存在せず、公爵や伯爵の方がよほど強いケースが多かったわけですが、次第に中央集権になり、近代以降に絶対的な力を持つようになっていきました。

 対して国土の小さなイングランドは元来それほど多くの王国が存在していたわけではなく、アングロ・サクソン時代の賢人会議を発祥とする貴族会議を持って王権と駆け引きをし、王権も妥協しながら統治していくというかたちになることが多く、大陸帝国のような独裁体制にはなりにくかったと言えます。

 例外は1642年に議会派を率いて清教徒革命を起こしチャールズ1世を処刑して、53年にイングランド共和国初代護国卿となったオリバー・クロムウェルです。支配した議会を基盤に対抗勢力を排除し、スコットランドやアイルランドまでを手中に収めました。ただ、これは英国史では例外中の例外で、クロムウェルの死後まもなく、護国卿政はわずか1年で終焉しています。王権と議会が妥協しながら統治を行うという形式は、第一次世界大戦後に大きくかたちを変えましたが、根本のところでは現在まで変わっていません。

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