官邸の大きな誤算
中国漁船は九月七日午前、尖閣沖で違法操業中、海保巡視船から退去警告を受け二隻の巡視船に接触、衝突して逃げ、四時間近くの逃走劇の後、停船命令に応じた。政府は対応を協議し八日未明に船長を公務執行妨害の疑いで逮捕した。外交的配慮を言うなら、政府は船長を強制送還することもできた。
現に〇四年三月、尖閣諸島に中国人活動家七人が上陸した事件で、政府は小泉首相の靖国神社参拝で緊張した日中関係を考慮し、送検を見送り強制送還した。船長の身柄を送検し日本の司法手続きで処罰すれば、尖閣海域に日本の法律を適用するのは「荒唐無稽」(中国外務省)とする中国政府が激しく反発することは火を見るより明らかだった。
しかし、民主党代表選のさなか総理官邸を仕切った仙谷由人官房長官らは外交的配慮を否定し「法令に基づき厳正に対処していく」とあえて船長の逮捕、送検を認めた。これは客観的には中国の海洋進出に対し尖閣実効支配を主張する外交戦を挑んだに等しかった。先に火中のクリを拾ったのは日本だったのである。
しかし、中国がガス田協議延期や閣僚交流停止など強硬な対抗措置を矢継ぎ早に打ち出すと、仙谷長官は尖閣とガス田問題は「次元が違う」、「日中のハイレベル協議をしたい」と弱音を吐き始める。それは中国に「あと一押し」の自信を与えたに違いない。中国が独占するレアアース(希土類)について事実上の対日輸出制限を始め、河北省の「軍事管理区域」で日本人四人を拘束したことを発表すると、もう政府は持ちこたえられなかった。大阪地検特捜部検事の証拠隠滅事件という弱みを抱える検察当局は、自ら泥をかぶって釈放決定を行う「救いの手」を差し伸べ、政権に「貸し」を作ったのではないか。本来なら捜査当局による外交判断など論外として排除すべき政権も、それにすがりついたのだ。
中国の強硬な対応を読みきれず司法手続きを開始させた官邸の判断が、まず問題だ。中国の党・軍内には海洋権益確保を求める声がうねりのように高まり、二年後の党大会を控え、軍の支持獲得に腐心する胡主席に安易な妥協はできない。外務省は官邸に中国の国内事情を十分説明していたのか。
中国が外国との対立で激しい非難を繰り返し恐怖を与えるまで対抗措置を口にするのは常套手段だ。たじろいで弱みを見せれば、ますます中国は居丈高になる。菅政権には、中国との交渉術について経験を持つ政治家も、指南するブレーンもいなかった。
胡政権が軍に迎合し対外強硬路線を強めたことで対抗するパワーを欠いた対中外交は今後、無力であるばかりか有害になろう。尖閣事件では日本が司法手続きを粛々と進める一方、中国の海洋進出に懸念を強める周辺諸国に理解と連携を求めて中国の孤立を図るべきだった。国内事情から事件解決を長引かせることができない中国は、対日非難を重ねながらもいずれは事態収拾に動かざるを得なかった。そうすれば対外強硬路線は国際的孤立を招くという教訓を中国に残し、胡政権に党・軍の対外強硬論を制御する手がかりを与えたに違いない。民主党政権は彼我の力関係を顧みず中国に外交戦を挑み、逆に脅されてすくみあがった。さらに検察に釈放決定をさせる責任回避をしたことは、尖閣の主権を危機に陥れたばかりでなく中国の熱狂的ナショナリズムを昂進させ、この大国の進路にも重大な悪影響を与えたことになる。
船長の帰国後も日本に強硬姿勢をとり続けてきた中国も「必ず謝罪と賠償をしなければならない」と主張した最初の外務省声明から「謝罪と賠償を要求する権利がある」(外務省報道官談話)とトーンダウンした。「尖閣は日本固有の領土だ。謝罪や賠償は考えられない」と突っぱねた菅首相に対しても名指し批判を避けている。インターネットでは船長が尖閣海域の漁業に必要な中国政府発行の通航証を持っていたかどうかを問題にして英雄扱いを戒める論調も出始めた。中国が強気の中に垣間見せる弱音を見逃さず、対中外交の展望を切り開く情報収集力と判断力が菅政権に問われている。
(了)
〔『中央公論』2010年11月号より〕