取り込み、切り捨てる
政策的に合致していようが、相容れなかろうが構わない。だからこそ、橋下の周囲にはさまざまな人種が集まる。たとえば橋下が小沢一郎に最初に会った場面を思い出す。
「もう、すごいとしか言いようがない。日本を動かしているっていう感じ」
〇九年十二月、初めて会った小沢の印象を記者団から問われ、橋下はそう持ち上げた。かと思えば、小沢が政治とカネ問題で窮地に追い込まれると、距離を置き始める。逆にダブル選挙後は、他の政治家たちと同じく、小沢のほうから橋下に秋波を送るようになる。
「旧体制をぶち壊さなければ本当の市民、国民のためのものは生まれないという趣旨の話をしている。私の年来の主張と同じだ」
橋下は自らの人気を武器に、相手を取り込んだり切り捨てたりする。
もとはといえば、橋下は自民党や公明党のバックアップを得て知事に当選した。自公連立政権当時、自民党の古賀誠が橋下を担ぎ出したのは有名な話である。
橋下新党の代名詞のように語られる維新の会は、その前身を「自民党・維新の会」といい、自民党府議団の会派だった。現大阪府知事の松井一郎たちが、橋下のカリスマ性を頼りにして神輿を担いで独立したに過ぎない。橋下も自公の地盤失墜を尻目に、その気になった。この時点では、橋下を政治的に支えるブレーンといえば、せいぜい松井たち自民党府議団の不満分子だけである。
この間、中央政界が地殻変動を起こす。〇九年八月、衆院選で民主党が政権を奪取。橋下が小沢と会ったのは、そんな民主党の絶頂期に近い。だからこそ最初は持ち上げたのだろう。そして橋下は自公から離れ、一〇年四月に大阪維新の会を旗揚げした。
いまや大阪どころか日本の政界を揺るがしている橋下徹の大阪維新の会は、こうした中央政界の変動と歩調を合わせ、変化してきた。政権交代後の民主党の体たらくぶりは周知の通りだが、ダブル選挙後は、その間隙を突いて中央政界に打って出ようとしている。
政策ブレーンの支柱である慶大教授の上山信一は、かつて大阪市長の關淳一の側近として、市政改革を唱えた人物だ。關が前市長の平松邦夫に敗れたあと、大阪府知事の橋下が迎え入れた。目下、府市特別顧問の大阪府立大学教授の橋爪紳也も、同じく大阪市政改革に奔走した人物だ。いわば大阪都構想は、上山たちによる關時代の市政改革をフレームアップした政策に過ぎない。
弾き飛ばされた人々
橋下の人脈を整理すると、堺屋太一を中心とする脱藩官僚組、松井一郎たち元自民党の地方議員、さらに上山や橋爪らの市政改革学者組、そして中央、地方の政界からのすり寄り組、といった具合に分類できる。いずれも、古い付き合いではない。最も古くて、せいぜい知事選出馬前後の四年あまりだろう。どこかの組織から抜け出した、悪くいえば弾き飛ばされた人物だ。
政界でいえば、石原慎太郎・伸晃親子、みんなの党代表の渡辺喜美、愛知県知事の大村秀章、名古屋市長の河村たかし、前横浜市長の中田宏や前杉並区長の山田宏など。変わったところでは、国民新党の亀井静香まで、次期衆院選を睨んで橋下の人気を頼っている。最近では、公明、創価学会まで橋下にすり寄っている。
二月には、橋下らの提出した大阪市の「日の丸・君が代条例」が成立。もともと創価学会は前身を創価教育学会といい、小学校の校長だった牧口常三郎が創設した。教育への政治介入に反対してきた経緯がある。それだけに当初、国旗掲揚時の起立、国歌の斉唱に違反した教職員に対する懲戒措置には、公明、創価学会ともに猛反発した。が、それすらも背に腹はかえられない、と折れた格好だ。二月十七日、公明党の参議院会長、白浜一良が橋下と密会し、維新の会による総選挙での協力を取り付けたと伝えられる。公明党が擁立する大阪の小選挙区では維新の候補を立てないよう、橋下に要請したという。
この二月以降、橋下は小沢一郎や前原誠司など、中央政界の実力者たちとの密会を頻繁に繰り返している。橋下に吸い寄せられている実力者たちは、選挙における橋下人気に怯えているというほかない。今では立場が完全に逆転し、橋下が彼らをブレーンとして引き入れるか否か、利用できるか否か、値踏みされているかのようだ。
橋下徹は、敵をつくる名人といわれる。表向きそれは、小泉流に倣った手法にも見える。大きな既成勢力と闘う姿勢を演出することによって、人気という絶大な味方を得てきた。その実、ここまで多種多様な人脈を広げてこられたのは、利用できる味方を片っ端から受け入れてきたからではないだろうか。
政策に対するこだわりがなく、自由自在に変質する。それが橋下流人脈形成術のように思えてならない。(敬称略)
(了)
〔『中央公論』2012年5月号より〕