(『中央公論』2021年9月号より抜粋)
- 都議選に見られた「ポピュリズム」
- 福田恆存が論じる「政治と文学」
都議選に見られた「ポピュリズム」
筆者はこの原稿を東京都議会議員選挙の投票日の翌日に書いている。話題を集めているのは、42・39%と過去2番目に低い投票率と、都民ファーストの会の意外な善戦、そしてまたしてもの、小池百合子都知事による「小池劇場」についてである。テレビやインターネット記事は、低投票率の原因をコロナウイルスの感染拡大を恐れたから、などと指摘するが、恐らくそれは間違っている。
「間違っている」とは、民主主義本来の姿からすれば、コロナを理由に投票率が下がることはありえないはずだからだ。1年以上にわたり苦しめられてきたウイルスとの闘いで、私たちが直視させられたのは、国、自治体、保健所の三者の権限が不明確であり、結果、協議によって膨大な時間の浪費が行われたことだ。政治学者の竹中治堅氏は、2020年9月に安倍晋三前首相が辞任する前後までのコロナ対応を総括し、コロナ危機においては首相、内閣、厚生労働大臣らの権限はきわめて限定的で、都道府県知事と保健所設置市、特別区が独自の権限をもっていた事実を指摘している(『コロナ危機の政治』)。
コロナ危機は、地方自治がいかに私たち市民に身近な存在で、日々の活動を左右するものかに気づく絶好の機会になるはずであった。居酒屋の時短要請や酒の提供の停止はもちろん、目下、狂騒曲となっているワクチン接種の段取りも自治体の仕事である。そうであるならば、今回ほど都議会議員選挙への関心が高まっても不思議ではなく、投票率が上がって当然ではなかったか。
にもかかわらず、実際には2人に1人以上が、投票所に足を運ばなかった。これを筆者は「民主主義本来の姿」から見れば、ありえないことと指摘したわけである。
そしてもう一つ、小池劇場の話である。今回の都議選は、事前には都民ファーストの会の惨敗が予想され、前回苦戦した自民党と立憲民主党が復活、あるいは躍進すると予想されていた。しかし、小池都知事は突如6月22日に体調不良を理由に入院し、30日の退院、7月2日に急遽記者会見をひらき、「倒れても本望」という名言(?)を吐いた。この言葉だけが躍って、耳に届いた有権者も多かったことだろう。
一連の行動について言及するのは控えるが、短期決戦下での「劇場」に対して、一部有権者がそれを前向きに捉えたことは事実である。その結果、当初は10議席を割るとさえ予想された都民ファーストの会が、31議席を獲得し第2党に踏み止まった。
今回の都議選で私たちが目撃したのは、民主主義本来の姿からすれば驚くような低投票率と、劇場型政治、すなわち「ポピュリズム」であった。筆者はポピュリズムを民主主義の堕落形態の一つと捉えて問題視する。なぜならそれは、人びとの情緒を不安定な方向へと駆り立てるからである。
例えば都議会議員選挙の最中、都内の街角で演説する野党候補者の中にはオリンピック中止を叫ぶ者もいたが、その背景には、コロナ感染者を絶対に出してはいけない強迫観念のようなものがあった。憑かれたかのようにコロナ感染者のゼロを叫び、さらなるコロナ危機をもたらすのはオリンピックであるとして五輪中止を主張していたのである。
オリンピック開催の是非はここでは措く。問題は、野党候補者の発言が二つの重要な論点を浮き彫りにしていることだ。第一にコロナ危機を過剰に演出することの危険性であり、第二に感染者数をゼロにすることが政治の果たすべき役割なのか、という問題である。