平民宰相の政策
政策はどうであったか。100年前の原内閣は経済の混乱と国際政治の転換に直面していた。
第一次世界大戦が終わり、国内にはひとときの安堵感が広がっていた。しかし、大戦景気の勢いから国内では起業ラッシュと過剰投資が続いた。そしてほどなく戦後不況がやってくる。生活の道を失う家庭が続出する一方で、物価は高騰を続けた。
そこにスペイン・インフルエンザが襲う。まだ予防知識も十分でない社会のなかでウイルスは蔓延し、内地だけでも国民の半数近い2400万人が感染し、45万人が死亡したとも言われる。国民の自助で乗り越えられる事態ではない。
経済の崩壊を回避する─。原の動きは迅速だった。紡績業をはじめとする基幹産業への資金繰りを確保し、破綻のおそれがある金融機関には積極的に融資を進めて支えた。
それを可能にしたのは首相のリーダーシップのもとでよく統一の取れた内閣であった。
世論は、藩閥と妥協を重ねてきた原の経歴から、1918年の組閣時には藩閥との連立内閣となると予想した。原はこれを覆すように政党内閣にこだわり、政友会を基盤とする内閣を作り上げ、世間を驚かせた。原内閣が「初の本格的政党内閣」と言われるゆえんである。その実力が国家を危機から救うことになる。
安定政権によって経済全般を支え、危機を乗り切る。ところが新聞各紙はこの方針に異を唱える。原は財界に厚く、国民に薄い。これでは平民宰相の看板が泣くと攻め立てた。議会では能弁家が「西にレーニン、東に原敬」と糾弾し、喝采を集めた。
追い打ちをかけるように、与党政友会をめぐる汚職疑惑が次々と浮上する。なかには原が重用した人物の疑惑もあった。原への批判は強まる。
辞め時はいつか。1921年3月の議会後には総辞職を考えた。すでに2月には遺書を書くほど追い込まれていた。
そこへワシントン会議への誘いがあった。領土的野心を警戒される日本のイメージを払拭するか、それとも増幅させるか、国際政治の転換点である。国内では大正天皇の病状が悪化し、皇太子を摂政に就ける必要があった。
内外の情勢が大きく動き出したこのころ、原はようやく国民と歩む必要に気付き、向き合い始めた。自助だけでは到底立ち行かない状況を前に、社会政策の担当部局を各省に立ち上げ、職業紹介や住宅供給、労働政策を繰り出していった。
この年の正月には「国民に望む」と題した文章を新聞に寄せ、明治維新以来50年にわたる国民の努力を称賛し、新しい時代に国民とともに歩みだす姿勢を明確に打ち出していた。
幸い、戦後恐慌は落ち着きを見せつつあり、政権への批判も沈静化してきた。次の議会を乗り切ったところで辞職する。そう決めていた原を青年の凶刃が襲った。11月4日のことである。彼の死後、国内政治は混乱に陥り、世界も日本の行く末を案じた。
菅内閣はどうだったか。通常、首相が不慮の事態で退陣し、その閣僚が政権を引き継ぐ場合はほとんどの閣僚が留任する。衆議院議員の任期は組閣の段階で残り1年。大方の予想は「居抜き」内閣であった。
菅首相はその予想を砕く。「派閥の要望は受け付けない」として、異例の大改造を行った。
各省では厚労相、法相に経験者を充てコロナ対応の足固めをした。内閣府では、行革担当に河野防衛相を転じさせ、デジタル担当、防災担当は経験者を再入閣させるなど、実力を重視した人選が行われ、官邸官僚も大幅に入れ替わった。
この組閣は驚きを持って迎えられた。「国民のために働く内閣」に相応しい陣容でもある。筆者も組閣の翌日に行われた国際会議で、菅内閣は「初の本格的『改造』内閣」であると評した。
「自助、共助、公助」をはじめ、その治世への評価は今後を待つことになるが、小学校35人学級、高齢者保険料の見直し、携帯電話料金の値下げ、ワクチン接種の拡大、孤独対策と、国民目線の政策が多く打たれた。
それにもかかわらず支持率は低迷の一途を辿り、遂には自ら政権を退くこととなった。国民は期待が持てないと平民宰相を見放したのだ。
1974年長野県生まれ。99年慶應義塾大学法学部卒業、2003年同大学大学院法学研究科博士課程単位取得、退学。博士(法学)。専門は日本政治外交史、オーラル・ヒストリー。著書に『政党と官僚の近代』『近代日本の官僚』(日本公共政策学会賞)、『原敬』など。