(『中央公論』2022年10月号より抜粋)
- 葬式と火事に見る日本文化
- 真剣勝負で臨んだ国会論戦
葬式と火事に見る日本文化
──今年8月15日の全国戦没者追悼式での「追悼の辞」で、戦死した父親らへの思いを語り、「戦争の悲しさを伝える語り部」として生きると宣言したのが印象的でした。
父は32歳で戦死しました。母は残された私と妹を女手一つで育て、41歳で力尽きるように亡くなりました。母も戦死したと思っています。
「追悼の辞」でも述べましたが、私は子供の頃、「一度でいいからごはんをおなかいっぱい食べてみたい」と思っていました。そんな私を参議院の議長にしていただいたのです。残りの人生、平和を守るために全力を尽くします。
実は追悼式では、眼鏡を置いてきてしまってね。真っ白な床にライトが反射して、(舞台から降りる際に)傾斜に気がつかず、ちょっとふらっとした場面がありました。見ている人は見ているもので、「尾辻はあの追悼文を読み終えて力尽きたんじゃないか」と言われました。本当は眼鏡を外していたせいでしたが、精も根も尽きるぐらいの努力をして、必死でやっているつもりではあります。(追悼式2日前の)13日ぐらいからはあまり寝ていなかった。夜中に目が覚めて、気になって。言葉は大事にしたいですから。
──それに先立つ8月初めの臨時国会で、参議院議長に選出されました。
議長としての最初の仕事が、(銃撃事件で亡くなった)安倍晋三・元首相への弔辞の朗読でした。思いを込めたつもりです。やはりつらいですね。
──これまで他党の現職国会議員の死去に伴う哀悼演説を3回もされています(注・衆議院では「追悼演説」、参議院では「哀悼演説」と呼ばれる)。
葬式と火事には何があっても行くというのが日本の文化です。火事の時は誰の家だろうがみんなで駆けつけ、消火する。生前にいがみ合っていたとしても葬式には行き、亡くなった方を敬うのです。
私も葬式は何をおいても必ず行くつもりだし、誠心誠意を込めたお悔やみは欠かさないつもりです。
私は自分のことを「人間好き人間」だと思っています。人間が大好きなのです。お別れを言う時も、好きだからどうしても思いがこもってしまいます。
──衆院本会議での安倍氏の追悼演説は当初、自民党の甘利明・前幹事長が行うことで内定しましたが、与野党からの反発により延期になりました。
誰が追悼文を読もうと、心を込めて読めばそれでいいわけです。与党議員の追悼演説は必ず野党議員が行わなきゃいけないとは思いません。亡くなった方に対する表敬は、敵だ、味方だとかいうような感覚でとらえるものではないと思う。