生成と崩壊の背景
このように当時の経済の姿を振り返ってみると、「なぜバブルだということに気が付かなかったのか」という当然の疑問が浮かぶだろう。しかし、バブル期において、その異常さを指摘する議論はほとんどなかった。
筆者は、当時の人々がバブルだと思わなかった背景には、日本が興隆期における自信に満ち溢れていたことがあったと考えている。日本経済は、1950年代後半から70年代初頭にかけての高度成長によって世界第二位の経済大国となり、先進諸国の仲間入りをした。その後も、2次にわたる石油危機、プラザ合意(85年)後の円高の進展といった外的環境の変化があったが、いずれも円滑に乗り切った。そしてバブルが来て、経済はますます繁栄した。こうなると、日本的な雇用慣行も、日本的企業経営も、日本的金融構造も、すべてプラス要因に見えてくる。
要するに自信満々だったのである。だからこそ株価の上昇は企業価値の高まりを、地価の上昇は土地の付加価値生産性の高まりを背景としたもので、異常なものではないと考えられた。今から思えば、日本型雇用も日本型経営も、すでに歴史的使命を終えつつあり、改革が必要だったのだが、バブルによってそれが覆い隠されてしまったのである。そしてバブルが崩壊すると、それまでの自信過剰は一気に自信喪失へとつながり、是正すべき構造的課題が次々に表面化することになる。
(『中央公論』1月号では、この後も「経済学的に見たバブルの生成と崩壊」「日本経済に与えた正の影響と負の影響」「不良債権とデフレという後遺症」、そして「現在の経済政策が学べること」について議論している。)
小峰隆夫(大正大学客員教授)
〔こみねたかお〕
1947年埼玉県生まれ。69年、東京大学経済学部卒業後、経済企画庁入庁。経済企画庁経済研究所長、物価局長、調査局長、国土交通省国土計画局長などを経て、法政大学社会学部教授、同大学大学院政策創造研究科教授、日本経済研究センター理事、大正大学地域創生学部教授などを歴任。『平成の経済』(読売・吉野作造賞)など著書多数。
1947年埼玉県生まれ。69年、東京大学経済学部卒業後、経済企画庁入庁。経済企画庁経済研究所長、物価局長、調査局長、国土交通省国土計画局長などを経て、法政大学社会学部教授、同大学大学院政策創造研究科教授、日本経済研究センター理事、大正大学地域創生学部教授などを歴任。『平成の経済』(読売・吉野作造賞)など著書多数。
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