- 20世紀史の矛盾を背負った島
- 断ち切られた島の生活
20世紀史の矛盾を背負った島
80年前の1945年2月中旬から3月末にかけて、東京都心から南方約1250キロメートルに位置する火山島で、激しい地上戦が行われた。5月にかけて行われた米軍による掃討作戦を含めて、日本軍側約2万2000人、米軍側約6800人が落命した。第2次世界大戦でも最も凄惨な戦闘のひとつとされる、硫黄島(いおうとう)の地上戦である。
硫黄島は「常夏」の島で、年間平均気温は25度を超える。小笠原兵団長の栗林忠道の命で島の地下に張り巡らされた、総延長20キロメートル近くに及ぶ壕の中は、火山の地熱で40度以上に達した。日本軍将兵らは、圧倒的な火力をもつ米軍の猛攻撃に対して、灼熱の壕に籠って持久戦を展開した。日本軍側の致死率は95%以上にも及んだ。
硫黄島地上戦の様相は、日本でも広く観られたクリント・イーストウッド監督の映画『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』(ともに2006年公開)、そして地上戦生還者の証言を含む多数の書籍やTVドキュメンタリーなどを介して、断片的ではあるが、それなりに知られている。また、硫黄島が長く自衛隊の全島管理下にあり、一般人の上陸が難しいことについても、知る人は多いだろう。
だが、現在東京都小笠原村に属する硫黄島が、19世紀末から半世紀にわたって民間人が住んでいた生活の場であったこと、また戦時強制疎開から80年以上も島民が帰還を許されていない島であることは、まだまだ広く知られているとはいいがたい。
このように、「地上戦の島」(と「自衛隊の島」)のイメージに覆いつくされてきた硫黄島を、「地上戦史観」から解放すべく、筆者は2019年1月、本誌版元から中公新書『硫黄島 国策に翻弄された130年』を上梓した。2007年に小笠原群島(父島・母島など)200年の通史である最初の単著『近代日本と小笠原諸島 移動民の島々と帝国』を刊行した後、筆者は10年以上かけて、戦時強制疎開前の生活の記憶をもつ硫黄島民(島民1世)へのインタビューを重ねるとともに、各地で硫黄島関係の文献資料を集めてきた。拙著『硫黄島』は、硫黄島(と北硫黄島)の初のまとまった通史であり、また硫黄島民の歴史経験を日本とアジア太平洋の近現代史のなかに位置づける仕事でもあった。この難産といえる仕事から導かれたのは、硫黄島こそ、日本の20世紀史、特に「昭和100年」の矛盾を背負わされた場だという認識にほかならない。