厄介な経済現象の多くは需要と供給のミスマッチによって生じる。例えば、失業の原因は、労働の供給(働きたい労働者の人数)が労働の需要(企業が雇いたい人数)を上回るという意味でのミスマッチだ。
「ミスマッチ」というからには「マッチ」もあるはずで、労働市場の例でいえば、労働の供給と需要が一致している状態だ。それを実現するには、労働の価格である賃金(正確には実質賃金)が調整されなければならない。
しかし、そうした賃金の調整は瞬時にはなされない。失業の例では、実質賃金が高止まっているが故に、労働者は高い賃金の下で多くの労働を供給したいと考える一方、企業は賃金が高すぎるのであまり雇いたがらないからだ。
マクロ経済学では、ミスマッチとその先にあるマッチを描写する際に「自然」という言葉を使う。自然とは賃金と価格の調整を終えて経済が行き着く先という意味で、19世紀の経済学者、クヌート・ヴィクセルが提唱者だ。
失業というミスマッチを例にとると、賃金が下がるにつれて失業は徐々に減るが、賃金の調整が完了しても一定の失業は残る。もっとよい処遇の職場を求めて転職する人たちがいるからだ。この種の失業に対応する失業率は「自然」失業率とよばれている。ノーベル賞を受賞したミルトン・フリードマンが提唱した概念だ。
「自然」が登場するのは失業だけではない。金融政策を巡って新聞等で最近頻繁に目にするのが「自然」利子率という言葉だ。これは、価格と賃金の調整が完了した際に実現する実質利子率を指す。例えば、日銀総裁は、利上げの理由を説明する際に自然利子率を持ち出し、足元の実質利子率が自然利子率との対比で低すぎるので調整が必要と主張する。「自然」利子率という言葉が多用される理由は明らかで、実質利子率の理想の水準という意味合いをもつからだ。足元の水準が理想の水準から離れているのでそれを是正したいという説明は明快だ。
一方で、今のところ誰も語っていない、しかし、これからの日本経済にとって死活的に重要な「自然」もある。それは「自然」実質賃金だ。労働の需要と供給をマッチさせる、理想的な実質賃金の水準という意味だ。
都市部でも地方でも人手不足が深刻で、これからさらに厳しくなると見込まれている。人手不足とは、労働の供給が需要に追いつかないという現象で、これもミスマッチだ。足元の実質賃金が「自然」実質賃金を下回り、低すぎるが故に、労働の供給が労働の需要を下回っている。
この「自然」実質賃金を巡って、連合が今般公表した「未来づくり春闘」評価委員会の報告書は、足元の実質賃金が「自然」実質賃金から乖離している分を、来年以降の春闘での賃上げ要求に上乗せすべきと提言している。実質賃金を理想的水準(=「自然」)に近づけるという意味で、日銀総裁とよく似たメッセージだ。
筆者の暫定的な推計によれば、両者の乖離幅は約3%ポイントだ。この推計が正しいとして、そのギャップを今後3年間で埋めていくとすると、毎年1%の実質賃金引き上げが必要になる。具体的には、今年の春闘では賃上げ率5%が目標として掲げられたが、その数字に、実質賃金引き上げ分の1%を加味すると、今後3年間の春闘で目指すべき賃上げ率は6%ということになる。
この数字は非現実的にみえるかもしれない。しかし人手不足というミスマッチを解消し、「自然」に到達するにはこれだけの賃上げが不可欠だし、労働組合がそれを要求するのは当然の権利だ。来年の春闘に向けて、そうした認識が労使で共有されることを期待したい。
(『中央公論』2025年11月号より)
1959年生まれ。東京大学名誉教授。東京大学経済学部卒業。ハーバード大学でPh.D.取得。専門はマクロ経済学。日本銀行、一橋大学教授、東京大学大学院教授などを歴任。株式会社ナウキャスト創業者・取締役。著書に『物価とは何か』『世界インフレの謎』『物価を考える』など。