――本書執筆の経緯をうかがえますか。
本書の刊行は8月。あちこちで「予言の書」と言われました。直前の参院選で参政党が伸張したからです。でも、病根はもっと深いところにあります。
私に疑問を突きつけたのは「新型コロナ」でした。マスクをする、外出しない、営業を休む......国に「要請」されて「自粛」する国民。まるで政府の言いなりです。私たちは、連帯してコロナに立ち向かったのでしょうか。それとも、連帯責任を声高に叫び相互監視していたのでしょうか。感染拡大を食い止めた輝かしい現実は、権力への服従を強いられる悲劇的未来の序奏かもしれない、そう感じたんです。
――本書のテーマはファシズムですが、ポピュリズム、右傾化、極中道(エキストリーム・センター)といった用語も候補たりえたのではないでしょうか。
ポピュリズムひとつとっても、大衆迎合主義と批判する人もいれば、政治学者エルネスト・ラクラウのように「人民再構築のプロジェクト」と前向きに評価する人もいます。極中道も同じです。でも、今の私たちに、定義や概念の正確さを競い合う余裕はありません。ですから、ファシズム前夜の日本とドイツの財政の歴史をたどって共通するパターンを発見し、現代との類似点・相違点を探ることにしたんです。
もう一点、ポピュリズムは、19世紀後半のアメリカの人民党まで遡る古い概念です。貧しい農民・労働者の声を聞け、という問題意識から生まれた政治運動で、これを頭ごなしに否定できるのでしょうか。
ポピュリズム運動の拡大を恐れたフランクリン・ルーズヴェルトはニューディール政策を打ち出しました。一方、運動が波及した中南米の国々は次々と権威主義化、独裁化しました。つまりポピュリズムは、ファシズムにも、権威主義にも、そして民主的な福祉国家にもなりえます。問題の本質は、ポピュリズムが自由と民主主義を否定する「条件」を考えることなのです。
――日独の歴史をたどると、どのような条件が見えてきたのでしょうか。
極端主義(エクストリーミズム)とポピュリズムの結合です。例えば憲法改正の議論をしていたところに、憲法停止という極端な主張を出す人が現れる。実際、ヒトラーは憲法を停止して独裁を手にしました。議論の枠組みを破壊し、意図的に極論を示す。人気取りの政治闘争に明け暮れる人たちは、その極論を検証もせずに利用する。その結果できた負の均衡、「極端の束」がファシズムです。
ポイントは「右傾化=ファシズム」ではなく、ポピュリズムと極端主義の結合が左右双方で起きた点、そして、ファシズムであれ、権威主義であれ、ニューディールであれ、どの国でも財政のバラマキが主張されたことです。中間層の生活水準が下がり、生活不安を抱えるようになると、その中間層を巻き込んで受益者にしていくからバラマキが起こる。反緊縮が時代の空気になるのです。ファシズム前夜の日本では高橋是清蔵相の積極財政があり、ドイツではパーペン政権、シュライヒャー政権の財政膨張がヒトラー登場を準備しました。国旗、国歌、そしてバラマキ─既存のやり方が通用しない、イデオロギーとお金で人を束ねるしか方法がない、だから「危機」なのです。
――バラマキに注目するのは財政学者ならではの分析です。
財政は、連帯・共助のプラットフォームです。弱い立場に置かれた人たちの痛みを想像し、私たちがそうなった時にも備えられるようにする。いわば、希望を分かち合う社会をつくる「質的手段」が財政です。ところが、今の日本では、借金してお金をばらまく、票を買うための「量的道具」に近い。高市政権の「責任ある積極財政」、国民民主党の「手取りを増やす」、その他の野党が主張する減税も同じです。
財政は社会の寛容さを映す鏡です。平気で政治が借金を語り、外国人を目の敵にする。そのような道徳と秩序の破壊が進む国だから、税の痛みが増し、借金だらけになる。連帯・共助の土台をもう一度取り戻さねばなりません。
(『中央公論』2025年12月号より)