その強い思いは実際の運用態勢に現れている。そこで、この富岳を駆使して先端科学の最前線で活躍する研究者へのインタビューをこれから三回にわたり掲載する。今回は新型コロナウイルス(コロナ)治療薬候補を富岳で探索する京都大学の奥野恭史教授にお話を伺った(月刊『中央公論』2021年2月号から抜粋)。
創薬シミュレーションとは何か
─まず最初に「薬が効く」とは分子レベルで何を意味するのか、素人にもわかりやすくご説明いただけないでしょうか。
そもそも我々が病気になるのは、我々の身体を構成しているタンパク質や細胞が何らかの異常をきたすからです。
今回の新型コロナウイルス(以下コロナ)の場合ですと、まずウイルスが細胞に接着して細胞の中に取り込まれる。ウイルスは内部に遺伝物質の一種であるRNAを持っていて、細胞の中で自らのRNAを増やしていくことによって自分自身を増殖させる。これが私たちの細胞に危害を加えて、異常を引き起こすわけです。
このウイルスが自らを増やすときに、いろんな部品が必要になります。その一つがRNAを取り囲む「外殻」のようなタンパク質ですが、これを作り出すのが「メインプロテアーゼ」と呼ばれる酵素です(酵素もタンパク質の一種)。
メインプロテアーゼには「活性ポケット」と呼ばれる部分があって、ここが先程の(ウイルスの外殻となる)タンパク質を作り出す上で重要な役割を担っている。逆に言えば、この活性ポケットに外部から何らかの化学物質がはまり込むと、タンパクを作り出す機能がブロック(阻害)される。それによってコロナのようなウイルスの増殖を抑えて、感染症を治療することができます。これが「薬が効く」ということです。
我々はそうした薬の候補となる化学物質を、富岳を使ったシミュレーションで見つけることができました。
─シミュレーションで薬剤候補が見つかった場合、それ以降の製品化までの流れを教えてください。
通常の薬品開発は五つの段階に分かれます。①最初の「ターゲット探索」は、文字通り病気の原因となるタンパクを探すことです。②次は「リード探索」に移ります。これは標的タンパクと上手く結合する化合物(薬剤候補)を探すというステップですね。我々が富岳で行っているシミュレーションも、これに該当します。その後は③「リード最適化」に移ります。これは、その化合物の副作用を抑えて、人間が薬として安全に服用できるようにする。また薬剤としての活性を上げたり、薬として機能した後に適切に排泄されるように代謝のバランスも考える。要するに、最初は単なる化合物であったものを、きちんとした薬剤に変換していくわけです。
そこから④動物で評価する「前臨床試験」などを経て、⑤最終的にヒトで評価をする「臨床試験」に漕ぎ着けます。臨床試験はいくつかのフェーズに分かれますが、これらを無事パスすれば新薬の承認を受けて、患者さんの治療に使うことができます。
─私たちが薬として服用するわけですから当然ですが、それにしても手間のかかるプロセスですね。
ええ、非常に長く困難なプロセスです。一般に医薬品の成功確率は「二・五万分の一」以下と言われますが、それは大半のケースで最後までたどり着くことができないからですね。製薬会社はそれらの試行錯誤を無数に行うわけですから、医薬品が製品化されるまでには平均で一〇年以上の期間と一二〇〇億円以上の開発費がかかってしまいます。
─シミュレーションによって薬剤の開発コスト・期間をどれくらい削減できるのでしょうか。
正直、現段階のシミュレーションだけでは難しいところがあります。これに対し我々はさらにAI(人工知能)も組み合わせて、「リード最適化」から動物評価をする「前臨床試験」までの部分を効率化しようとしています。それによって確実にコストや期間を削減できるはずです。我々の目標は半減です。
特にコロナは、海外に比べて日本は感染者が非常に少ない。臨床試験を行うにも被験者を集めるのが難しいので、従来のやり方では薬剤開発が行き詰まってしまいます。このような状況を、シミュレーションとAIで打開したいと思っています。
─製薬業界でシミュレーションはまだそんなに本格化しているわけではないのですね。
やはり従来のシミュレーションには、精度の問題が相当ありますね。通常、製薬会社が行っているシミュレーションは、標的タンパク質の構造を止めた形で、そこにはまる薬剤(化合物)を探すことです。
今回のコロナでも、それを対象にしたシミュレーションは世界中で実施されていますが、全てがそうしたスナップショット的な計算です。そうすると精度が非常に低いわけです。
これに対し我々が富岳で行ったのは、薬となる化合物やその標的タンパク質を実際に動かすシミュレーションです。
実はこの手のシミュレーションは「京」でも行うことができましたが、あくまで基礎研究レベル。実際に創薬のパイプライン(製品開発)で走らせる数千規模の化合物の計算は、正直無理でした。富岳によって初めてそれが可能になり、十分に高い精度の本格的な創薬シミュレーションに向けた第一歩を踏み出したというところですね。