政治・経済
国際
社会
科学
歴史
文化
ライフ
連載
中公新書
新書ラクレ
新書大賞

「富岳」の正体⑤ コロナ治療薬の候補を富岳で特定――創薬シミュレーションの実力 

奥野恭史×聞き手:小林雅一

遅いマシンでは世界で戦えない

─創薬用のシミュレーションはどの国が一番進んでおり、日本はどれくらいのポジションなのでしょうか。

 どこかがすごく飛び抜けているというイメージはないです。ただ世界的によく知られているのは、米国のD.E.ShawResearchという研究所と製薬会社が資金を出し合って開発した「アントン(Anton)」というマシンです。これは一種、創薬専用のスーパーコンピュータですね。二〇〇八年に稼働を開始して以来、計算科学者の間で非常に注目されてきました。

─とすると基本的には米国がリードし、先生の富岳を使った研究によって、いきなり日本がトップに立ったという理解でよろしいでしょうか。

 正直、現段階では米国勢を追い抜いたとは思いません。そもそも富岳は汎用スパコンなので、創薬専門のスパコンであるアントンと単純比較することはできません。

 ただ京ではアントンに立ち向かえなかったが、富岳でかなり肉薄して戦える形になってきたかな、というところですね。

─スパコンの性能が本質的な意味を持つわけですね。

 そうです。単純に言うと、遅いマシンではどんなに科学者が頑張ろうと負ける。よくスパコンはF1にたとえられますが、マシンが遅かったら、凄腕ドライバーでも負けてしまう。そういう部分はありますね。

─中国はどうなんですか。

 中国はそもそも医薬品開発において、メーカーがオリジナルの新薬を開発するような段階には達していません。ただし研究あるいはシミュレーションのような計算の世界では、ここ数年急速な発展を遂げていますね。

 今回のコロナ問題で一層それを感じたのですが、そういう大学レベルの研究、特に論文では中国が質、量ともに世界トップを競うレベルにまでなってきています。

─そうした中で先生としては最低限、どれぐらいの能力のスパコンが必要ですか。

 いろんなシミュレーションがあるので一概には言えませんが、あくまで今回富岳でコロナに適用した類の計算に関して言うと、少なくともあと一〇〇倍くらい欲しいな、という感じですね。京から富岳で一〇〇倍の計算能力になりましたから、その次のスパコンも一〇〇倍になることを期待しています。

 ただし創薬のスピードアップは、単にスパコンの計算速度だけでは達成できません。今回、我々が富岳で行ったのは、既存の医薬品二〇〇〇種類余りの中からコロナ治療薬を探すためのシミュレーションです。

 研究対象を既存の薬に絞った理由は、先程お話しした創薬五段階のうち、細胞や動物を使った実験など、かなりの部分をスキップ(省略)できるからです。確かにコロナという別の病気を対象にしていますが、既に人が飲んでいる薬なので安全性は担保されています。

 今回、富岳によるシミュレーションで元々は寄生虫用の薬だったニクロサミドなど複数の候補物質が挙がってきましたが、ここから先は極端な話、すぐにヒトで臨床試験できるはずです。

─その中間報告をなさったのは二〇二〇年七月ですが、今回のプロジェクトはそれ以降どのように進んでいますか。また、これからどう進めていく予定でしょうか。

 ニクロサミドは非常に安価ですし、WHO(世界保健機関)によれば「妊婦さんが飲んでも大丈夫だ」と。つまり価格や安全性を考慮すると、この薬はコロナ治療薬の有力候補ではないかと思っています。

 そこでニクロサミドの開発元である独バイエル社にこの話をして、「一緒に臨床試験を行えないか」と交渉したのですが、バイエルは既に海外で二件ほどニクロサミドの治験を計画している、と。それに加えて、あえてコロナ感染の患者数が少ない日本国内でやるメリットが感じられないと言うのです。

 ただ、我々としてはせっかく、富岳でここまでやった以上、日本発で何か貢献できないかという交渉を、厚生労働省にバイエルとの間に入っていただく形で進めています(注・インタビュー後の二〇二〇年十月末に米国でニクロサミドの臨床試験がスタートし、レムデシビルよりも高い効果を示すのではないかと期待されているという)。

1  2  3