鈴木涼美 死に過剰な意味と恐怖を見出すことから少し離れて生きていく(宮崎駿『風の谷のナウシカ』を読む)
人間の愚かさと世界の汚れを引き受けて愛する
ナウシカに描かれる腐海は、私にとっては夜の闇のようでもあり、歌舞伎町であり、黄金町であり、ポルノ業界の瑣末な日常であり、キャバクラの仕事を終えて雪崩れ込むように入るギラギラした入り口のバーの中でもありました。かたや大学で、この社会が構造から狂っているということをひたすら学んでいる時期でもありました。正しいことは学べるけれど、正しさの中では生きられないことも実感として湧きでます。大層な論文を読みながら、夜にはあまりに凡庸な汚れ方をした世界の空気を吸う。その矛盾と繰り返しの中で、何が善であり何が悪であるのか、何が正義で何が間違っているのか、なんてことは全く見失っていました。すっきりと闇を取り払い、南の島の楽園で木を植えてみたいけれど、私はすでにそのようにはできていない。それに、南の島に行けば闇がないというのは私や私のマネージャーの願望が作り出した虚構でしかありません。
ナウシカは一度は人間が作り出した恐ろしい見た目の生物兵器である巨神兵に向かって、もう一度は森の主に向かって、とても似た言葉を投げます。「世界を敵と味方だけに分けたらすべてを焼き尽くすことになっちゃうの」「世界を清浄と汚濁に分けてしまっては何も見えないのではないかと・・・・・・」。正誤でも善悪でも敵味方でも、分けようと思えばとる道は2つ、正義として悪を断罪し続けるか、誤りに開き直って露悪的に生きるか。若い私にはそのどちらもがあまりに退屈な態度に思えていました。それに、最も間違っていると叱られるような世界に堕ちた先から見ると、正しいことと薄汚いことの間のグラデーションに散らばる、無数の現象こそが人の生き死にのように見えるのです。
さて、漫画版ナウシカはアニメ版のように何かの勝利で幕を閉じません。むしろ、答えを出さないこと、正義を定義しないことをエンディングとしています。「人間の汚したたそがれの世界で私は生きていきます」とかつて宣言したように、ナウシカは人間の愚かさと世界の汚れを引き受けて愛することを選びます。これは見方によっては方向性を示すことの放棄のようでもありますが、少なくとも、夜の闇にとどまるだけでなく、夜の闇を消滅させることでもないところに、自分の生きる場所を探そうとしていた疲れた私には心強いものでした。たとえ彼女が解決を断念したのだとしても、腐海の中を彷徨っている気分だった若者のうちの1人にとって、腐海と共に生きねばという宣言は、自分が悪であり誤りであり敵であるとみなされるような場所で嫌われるのを待って息を顰めて亡びるのだと考えないで済む答えでもありました。
「その人達はなぜ気づかなかったのだろう 清浄と汚濁こそ生命だということに」。ナウシカはそのような生命感を持って終わります。私は腐海の瘴気で爛れた肌を纏って、それでも時には清浄の場所や、またちがう汚濁の場所を彷徨い生きています。私は腐海を生き抜いてよかったのだと思うのです。汚濁の側を知ることは、自分が清浄の側に立っていると信じられる時でも、汚濁を悪敵のように排除しないでいられる気がするからです。私は到底ナウシカのようにはなれず、空は飛べないし、自分の生活を守りたいし、仲間が傷付けられれば腹も立つし、かつて期待したほどの才能もなく、どこまでも凡庸なままの大人にはなったけど、世界を2色に分けてしまいたい欲望に駆られた時には、時々この物語の言葉を思い出します。
18歳になり20歳になり、夜の世界の淵にいて、これから身体を売ることもあれば、だまし騙されることもあれば、自分の価値が億のようにもゼロのようにも感じる日もあれば、夜の闇の中で最高に楽しい時間も最低な気分も味わうだろう女の子たちに、そういう世界で持っていたら力が湧く言葉を、本の中から紹介してきたこの連載も今回で終わりです。人生はままならないし、世界は荒唐無稽だし、夜の闇は深いけれど、言葉をポケットに隠し持っていれば、どんなに闇が深くとも、多分、なんとかなるものだと私は信じています。
【編集部より】本連載が改題の上、書籍化されます。『娼婦の本棚』(中公新書ラクレ)、4月7日発売です。
鈴木涼美
中公新書ラクレ 発売日:2022/4/7 キャバクラやアダルトビデオなど、夜に深く迷い込んで生きていた頃、闇に落ちきることなく、この世界に繋ぎ止めてくれたものがあったとしたらそれは、付箋を貼った本に刻まれた言葉だった――。母親が読んでくれた絵本の記憶から始まり、多感な中高生の頃に出会った本、大学生からオトナになる頃に手に取った本など、自らを形作った20冊について綴る読書エッセイ。「中央公論jp」の好評連載「夜を生き抜く言葉たち」を、改題の上、書籍化。